ハニーチ



「本当に、私たち、どこ行くの?」


は、同じ質問をまた口にした。

二人の車は、サービスエリアを出た後もしばらく高速道路を進み、ようやく公道へ下りた。

それでもまだ木兎は車を走らせた。

大きな通りから脇道に入り、人家がどんどん減っていき、挙句、車に備え付けのナビゲーションをみてもどこにいるかわからない。

は木兎に任せていたものの、さすがに声をかけずにいられなかった。

木兎曰く、いま走っている道は最近できたもので、ナビに最新データが入っていないから、道なき道を進んでいるように見えるだけだそうだ。

実際、道沿いに立っている電灯は明るさが強く、しっかり周囲を照らしている。
道路も新しい。

かといってそれは安心材料にならず、人っ子一人どころか、車の1台も見当たらない場所をずっと走っていれば、さすがに行き先くらい確認したくなるだろう。

が不安を口にすると、木兎はカラッと答えた。


「大丈夫だ、もう着く! この辺で合宿やってたんだよ」

「すごいところでやるね」

「保養所があって、そこにでっけー体育館とトレーニング施設があるっ、時期によって使ってるって」


話しながら、木兎はうっかり見落としてしまいそうな細道へと右折した。

は窓の外を見る。

夜がどこまでも広がる。

もしもここで事故にでもあったら、どうなるんだろう。
助けは来るんだろうか。
そもそもスマホの電波は届くのか。


っ、着いたぞ」

「ここ?」


は考えていたことを荷物と一緒に車に残し、到着地に降り立った。










「うっ

    わあーー、木兎、星!

 星が、すごい、……すごい!!!」


「だろっ!!!

 これをみせたかったんだよ」


が星空に夢中になる横で、木兎は満ち足りた様子で腕を組んだ。

二人が見上げた先、山々のうえ、星という星が集まっているようにみえた。

広い駐車場とも言える、何もないスペースに木兎たちが乗っていた車1台が停まっている。

後は、外灯が一つあるだけだ。

なにもない、からこその、夜、闇、灯り。

闇夜のキャンバスに強くまたたく星々から、ほのかに灯る、小さな光まで。
ここなら特別な道具がなくとも二人の目で捉えることが出来た。

自然が豊かだった。

真っ暗で、静かで、こわくもあるけれど、には風に乗って届く緑の匂いも、さわさわと葉が触れ合う音もわかった。
山の上のほうだからか、空気も涼しく心地よかった。

その時だった。


「木兎! いま!」

「あれっ、やっぱそうか?」

「流れ星!! え、見れるの、みれるもの!?」

「願い事言っときゃよかったな」

「ほんとに!! あ、また!」



星だ。

ほんとうに、星だ。


夜の闇をすっと落ちて消える光が、幾つも見つけられた。


は、わずかに照らす外灯からも距離を置こうと駆けだした。

暗さに慣れるほど、夜空の星々がよくみえる。

吸い込まれそうだった。

点々と輝く星々が、明かりがないからこそ、雲一つない晴れた夜空に映えている。


振り返ると、の目には、木兎が見えた。


空を指差した。



「木兎、星!!」


「おー、星だ、星」


「木兎さ、合宿できたとき、見たの?これ」


「そんときは、別の場所。 こっから車15分くらいか?」


「そいや、合宿、どうだったの?」


「おー、強かった、ぜんぶ! おもしろかった!!」


「そっかーー、そっか」



いくつか木兎から合宿の話を聞きつつ、はふたたび星空と向き合った。

木兎、合宿のときにこの星を見たんだ。

だから、連れてきてくれたんだ、ここに。


ん?



「ここじゃないところにいたのに、どうやってここ知ったの?」


星空から、木兎光太郎へ。

が視界を映してみると、すぐそばまで木兎が迫っていた。音もなく。

ちょっとだけ驚いたものの、は黙って息をのんだ。
そんなのとなりに木兎は収まった。


「教えてもらった、この辺で1番、星が見えるところ。 合宿所でみえんだから、もっと見えそうな場所ありそうだろ、正解だったな」

「そ、そっか」

「みえたな、星」

「みえてる、すごく、すごい」


暗くて、隣にいるのに、木兎がよく見えない。
そう思ったとき、僅かな明かりでも察知した。

木兎が、こっちを見ている。





となりにいるのは木兎なのに、なんで自分は緊張しているんだろう。

不思議に思うに、木兎が言った。


「これ、天の川か?」

「へっ」

がみたかった天の川、これで合ってんのか?」

「たっ、たぶん……」


星の研究家じゃない。

天の川を見てみたいとはたしかにそう言ったけど、言葉以上の意味を持たず、星の知識がある訳じゃなかった。

もう一度、は面前の星空を瞳に映した。



「わかんないけど、これが天の川だとおもう。 今日、七夕だし」


なによりも、とてもきれいだった。

は満ち足りた心地でそう呟いた。
きれいだと。想像よりもずっと、きれいだった。

木兎が呟いた。


「これが見たかったんだよな」


天の川


 木兎も見たかったんだ。


見た時の、どんな顔するか。



グッ と、熱量が近づいた。

肩を抱かれたんだって、は木兎の熱に触れて理解した。

星じゃなかった。

自分を見ていた。

木兎は、を見つめ、見下ろしていた。


木兎。


の唇が彼を呼ぶ、まえに、あの時のように奪われていた。
息つく間もなく、二回目も、三回目も、触れてはきえ、またたく間に、もう一回。

は俯き、木兎の腕の力が緩んだそのとき、彼から抜け出した。

一歩、二歩、前に進み出た。

星を見上げた。星を。
変わらぬ夜空を、振り向くには勇気が要った。
は背中に視線を感じていた。
胸が、熱い。とても。



、いつまで木兎って呼んでんだ」



その声は怒っているようで、それでいて切実な響きを持っていた。

はかえりみた。


知っていたんだ、ちゃんと、わかってたんだ。

は、今日も、その前も、まだ一度も木兎を下の名前で呼んでいなかった。
呼べばいいのに、なぜか、できない。

は髪を耳にかけた。


「た……、タイミングがなくて」

「ずっと待ってたけど、今日も呼ばねーのな」

「よ、呼ぶよ」

「なんで離れんだよ」


木兎がが離れた分だけ歩を進めると、も同じ分だけ距離を置いた。

歩幅が違う分だけ二人の間隔は狭まったものの、の警戒心がそれ以上近づけさせなかった。


木兎は追いかけはせず、を見つめ続けた。

は耐え切れず、叫んだ。


「ぼっ木兎、なんか、こわい」

「こわい? つか、どこ行くんだよ」

「こ、怖くなくなるまで、あっち行く」

「危ねーぞ、柵しかないし」

「暗いのには慣れたし、木兎の方が怖い」


の鼓動が早くなっている。
何に対する不安だろう。

木兎じゃないか。よく知っている、あの木兎だっていうのに、なぜだろう、は、木兎から離れたくてしかたがなかった。

進めば進むほど夜は深くなり、星は近づく。
けれど、周りには何にもなく、木兎の言う通り、柵がの行く手を阻んだ。

柵の向こうは、植物が夏の日差しと時折降る雨で伸びに伸び、どこまでも森が広がるばかりだった。

このまっくらな自然に身を投じる勇気もない。
のスマホもなにも、木兎の車に置きっぱなしだった。電波、通じるかも知らないけれど。


振り返った先に、電灯、車、たった一人、木兎が立っている。

一直線だった、ちょうど。

何かの星座みたいだとは考えた。



、こっち来い」

「木兎、へんなこと、しない?」

「変なことってなんだよ」

「へ、へんなことは、変なことだよ」

「しないって、早くこっち来い」

「こっ来ないで」


待ちきれず、のほうに歩き出す木兎をは静止した。


「じ、自分で行く」

「ん!」


木兎は腕組をしてが自分の元に来るのを待った。

けれど、言葉に反しては動かなかった。


、なにしてんだよ」

「約束して、変なことしないって、絶対」

「しないって、俺がしたことあるか?」

「な、ない……けど」


木兎光太郎は、の知る限りにおいて、に“変なこと”はしたことはなかった。

はとぼ、とぼ、と用心深く木兎に近づいた。けど、時折、やっぱり立ち止まった。そのたびに、木兎はを呼んだ。そのたび、はまた勇気をもって一歩、また一歩、木兎に近づいた。


木兎。


呼びかけた時、まだ距離があると思っていたのに、木兎の一歩は、動きは、の想像するよりずっと大きく素早かった。


抱きしめられていた。

知っていた。

は、いつか抱きしめられた夜を思い出した。

浮かれた熱と、重なる幸福、上りつめる感情の昂ぶり。

この人にふれると、こうなる。

そうだった。

そうだ。


ほんとうは、つかまえてみたかったんだ、この人を。



「木兎……」


「なーまーえっ、何回言わせんだ」


「……こ、たろう」


光太郎。

が、もう一度、木兎のことを正しくそう呼ぶと、やっと木兎は笑顔になった。

これからずっと、そう呼べよ。

言葉は理解できるのに近すぎて、は木兎の言うことがあまり聞き取れなかった。

それより、も。


「も、もうさ、いいでしょ」


木兎は、が腕の中で身じろぐのを不思議そうに眺めた。


「なにが?」


「放してよ」


「なんで」


「なんでって、もう、名前、呼んだから」


「まだ足んねーよ、もっと聞きたいし、さわりたい」


また、木兎の腕に力がこもった。

密着する。

触れている分だけ、は、木兎の体躯を実感した。
また、同じだけ木兎にものすべてが知られている事実に気恥ずかしさが増した。


「木兎」

「戻ってる」

「光太郎」

「そうっ、もっとそう呼べ」

「光太郎」

「そう!」

「も、放して」


一瞬の沈黙。

のち、木兎は続けた。


「名前、もっと呼んでくれたら、はなしてもいい」



矛盾してる。

は思った。

顎に手を添えられ、こんな風に唇を重ねられたら名前を呼びようがない。

それは木兎に彼女を放す意思がないことには気づけなかった。


息、が。


が木兎の服を思い切り引っ張っても木兎はやめようとしなかった。ちかちかする、感覚。

ようやく唇がはなれ、は肩で呼吸をした。

木兎、そう呼びかけて、光太郎と言い直す。

木兎の眼差しが和らいだことが暗くともわかった。

俯くの肩を木兎が抱いた。


、星、もういいの?」

「途中から……誰かさんのせいでよく見れてない」

「だれかって、誰? 俺?」

「……光太郎以外、いる?」

「そうか、俺かっ」


木兎の声が弾んだのは、が下の名前で呼んだからだった。

はうっとうしそうに肩を揺らした。
木兎の腕はから外れそうもなかった。

は隣をじーーっと訴えかけるように見上げた。


「重たいんですけど」

「ふーーん」

「やっ!?」

「こんならいい?」


う、そ。

木兎はの肩から腕を外すと、今度はの腰に腕を回して空へと持ち上げた。


、これなら星、見やすい?」

「なっ何考えてっ」

のこと」


木兎はきっぱり答えた。


ずーーーーっと、のこと、考えてた。

夜に星みたときからずっと、にみせたら、どんな顔すんだろうなあって。

ずっと気になってたんだよ。思い出した。


あの日、みんなでプラネタリウムにいったとき、、本物の天の川見てみたいって。



「俺は、がホンモノみたとき、どんな顔になんのか、ずーっと見てみたかった!!」


すとん、と、は地面に戻された。
痛くはなかった。衝撃もない。

木兎が大切に扱ってくれていた。


「こんな顔、すんだなっ」


よしよし、と、木兎はうれしそうにの頭を撫でた。


「ずーっとさ、俺、とこうしたかったんだよな」

「はっ?」

「だーからっ、ずっと、そうなのは知ってたんだけど、まぁ、他に色々あったしさ!」


はやっぱり木兎の言うことは木兎らしいなとこれまで通りの感想を抱きながら、話に耳を傾けた。


「つまり、どういうこと?」

「この空と一緒なんだよ」

「空?」


木兎が夜空を見上げたから、も同じくまたたく星々を見上げた。

さっきまでと同じ星なのに、輝きが違って見える。

ああ、ちがう。

はその原因が分かった。


木兎がとなりにいるからだ。
自分はこの人に惹きつけられているからだ。

天の川、みたかったこと、本当だけど、でも、この隣にいる、誰よりまぶしいこの人に、こんな風に想いを向けられたら、どんな星も、色、褪せる。

そういう、意味なんだろうか。

ずっと変わらず、この空にある星々のように、在ったけれど、周りによって変わったかのように感じられるみたく。

木兎の言うことと同じかわからなかったけれど、は無性に答え合わせしてみたくなった。



「木兎っ」



それは、いつも通りの響きだった。

木兎にとって聞きなれた響きで、慣れ親しんだもので、誰よりも、どの声よりも、すっ と透明にひびく声。

反射的に振り向くのは必然だった。
それが当たり前だった。

が呼ぶなら、いつだって意識せずともそちらを向いた。

ふれあった、と認識したのは、の唇が離れてからだった。

それは、見逃した流れ星のようだと木兎は思った。

きらめいたのち、すぐ消える。


「すきっ」


無垢に微笑む彼女。

がもう一度流れ星を見たいと願うことと等しく、木兎が今この瞬間をもう一度、と願っていることに気づいていない。


「びっくりした?」

「……、呼び方、また戻ってる」

「あ、ご、ごめん」

「慣れろよ、早く」


木兎が両手をズボンのポケットに入れ、短く呟くと、は立ち止まった。


「キス、したから、怒ってる?」


そうじゃない。

強く思うのに、木兎は、上手く感情を押さえられそうになく、から視線を外し、つい昔やってしまったように、怒ってねーよ、と吐き捨てた。

その態度が、ますますは委縮させた。


「そうじゃなくて!!

 ……そうじゃねーんだよ。

 俺は、もっと、とそれ以上のこともしたいんだよ。

 でも、へんなこと、しないって、言っただろ」


「キス、は、へんなこと、じゃないよ」


「!?」


「そうでしょ?」


がまっすぐ木兎を見据えていた。

木兎の服を引っ張り、身長の高さ分、少しでも縮まるように、自身もつま先立ちをした。

ポケットに両手を入れたままの木兎がバランスを崩しかけたけど、唇と唇は、ぶつかることはなく、きちんと、正しく、ふれあった。



「ねえ、わたし、木兎はいいって、言ったよね」



その瞬間、



 もう、いいんだって、お互い理解した。


引き寄せられるように、惹きつけるように、ぎゅっと、こうも、近くに、鼓動を感じあう、抱擁だった。



……、俺、名前で呼べっつったよな」

「呼んだじゃん、光太郎って」

「すぐ、戻ってる」

「ずっと木兎って呼んでたから、つい」


今まで通りじゃダメなの?

木兎の胸板から顔を外し、じっと木兎をは見つめた。

木兎もまたを見つめ返した。


「もうずっと、俺たち、付き合ってんだろ。


 俺は、もっとに近づきたいし、そばにいてほしい。


 呼び方だって、ちゃんとしてほしいんだ。 あと、もう、……俺んところ、来い」


やっぱり木兎の言い分がは理解しきれない。

木兎が片手でごそごそと何かを取り出した。


、手、出せ」


言われるがまま、片手を差し出すと、なにか、乗せられた。

鍵、だった。


「なにこれ」

「俺の部屋の鍵」

「かぎ? なんで?」

「なんでって、もう、、住めよ、俺のところ」


急展開すぎる。

が混乱していると、もっと一緒にいたいんだと、いつでも会える距離にいたいんだと、もう1年経ったんだしいいんだろと、木兎節の冴える主張が怒涛の勢いで攻めてきた。

は木兎にもたれながら、ふと、1つだけ理解した。


「もしかして、だから、キーホルダー、私の分も買ってくれたの?」

「おぉ! そーいや、あったな、ちょうどいいっ、の鍵につけようぜ!」

「……もう」

「なんだよ、

「木兎のこと、知ってたつもりだけど、よく、わかんなくなった」


一晩で、塗り替わるような、間柄じゃないつもりだったのに。

たったの今夜だけで、違ってみえる。


そんなに木兎は笑った。



は、俺の何、知ってんの?」



夜風が吹いた。

いや、夜を切るように、木兎の腕がをとらえて引き込んだ。もう一度、強く。


、もっと知ってから言え。

 そんで、俺にものこと教えろよ、だれより、ぜんぶ」


まずは一つ目。

確認するように長く、深く、口付けた。


「こんな顔、するんだな」


キスしたときの

反論するように彼女は呟いた。

さっきも……したじゃん。
さっきは、よく見えなかったっ。

今も暗いのに、は自分の全てをぜんぶ木兎に見透かされたような心地がした。

また木兎がに近づいた。

もわかった。
ほんとうはもっと、彼を知りたかったんだと。

この一夜、この人に。

互いに、また一つ教え、教えあう、唯一の夜。


end.