ハニーチ

スロウ・エール 194 おまけ






雪ヶ丘中学校の、とある教室。

が日向翔陽からメールを受け取る時間より前にさかのぼる。


黒板にチョークを走らせていた教師が手を止めて、振り返った。



「なんか質問あるか、日向」

「ハイ!」


勢いよく手を挙げた生徒を先生は指さした。

生徒は答えた。



「先生は、卒業式にボタンほしいって言われたことありますか?」

「ぼたん?」


今、自分はボタンの話なんて一つもしていない。

教師の心境など構わずに、生徒は続けた。


「制服のボタンっ。 さ、じゃなくって、女子って、なんで、ボタン欲しがるのかなって」

「……日向、いま、何の補講してるかわかってるか」

「烏野対策です!!」


日向がビシッと背筋を伸ばす様子をしばし眺めて、教師は腰に片手を当てた。


「気が散りそうだから答えるけど、答えたらちゃんと集中しろよ?」

「します、集中!!」


ほんとうか?と半分疑いつつ、教師はチョークを置いた。

季節柄、なつかしくもある話題。


「ほしいとまでは言われなかったな」

「いらなかったんだ!」

「最後まで聞けって、これでも学年で人気の女子に呼ばれたんだぞ」


教師もまた生徒であったとき。

卒業式の後、誰もいない空き教室、クラスメイトの女子に呼ばれて、学ランの第二ボタンについて聞かれた、遠い日の記憶。

教師の話を聞いて、生徒は目を丸くした。


「だから、先生のボタンいらなかったんでしょ?」

「あのなあ」


生徒の言い分もわからなくもない。

自分の第二ボタンは欲しいとまでは言われなかった。

ただ、聞かれただけだ。

日差しのさす教室で、自分の制服に残る第二ボタンを誰かにあげる予定があるのかと、うつむきがちに尋ねられた。

質問だけで、それ以上、相手の女子はボタンについて何も言わなかった。


「先生は、その人が先生のボタン欲しがってたって思ってるんですか?」

「どうだっただろうな……」

「その人、ほしかったなら欲しいって言えばよかったのに。 言わないってことは」

「言えなかったかもしんないだろ」

「なんで?」

「なんでって、日向、第二ボタンだぞ」

「第二ボタンって、二番目のボタン?」

「そう、一番心に近いボタンだ。 日向、ほんとに知らないのか?」

「意味あるんですか、二番目って」


本当に第二ボタンの風習をわかっていないらしい生徒に呆れつつ、先生は口を開いた。


「第二ボタンくださいって、“あなたのことがすきです”って意味だろう?」


そりゃ簡単に言いだせるはずがない。

そうか、あの時、あの子が第二ボタンの話題を出してくれた、ということは、やっぱり自分に好意があったってことだ。

こんな時を重ねた今、教師は彼女の気持ちに思い至った。

補講に集中していない生徒に少しだけ感謝した先生が顔を上げると、なぜか生徒はソワソワと落ちつきがさらになくなっていた。


「……日向、どうした? 知恵熱か?」


勉強が不得手なのは知っているが、第二ボタンの話をして一気に脳がパンクしたんだろうか。

先生の戸惑いに気づかず、日向はまた手を挙げた。


「先生!!」

「なんだ、どした」

「おれ、ちょっと用事が!!」

「あほか、誰のための補講だ」

「んぐ!! お、おれ、です!」

「しっかし、顔赤いぞ、なんだ、空調切るか?」


先生が教室の暖房を切ろうとしたとき、後ろのドアが開けられた。

顧問をしている部活の部員だった。


「先生、ちょっとだけ来てもらえませんか? 5分くらいでいいんで」


あからさまに日向の瞳が輝いたのは教師にもよくわかった。

5分と言っても移動時間を考えて10分か。


「……じゃあ、日向、じ「あざっす!!」


10分休憩、と言い切るより先に教室を後にする生徒。

いや、いいか。

教師は、補講前にやるように指示したプリントの出来を眺めて一人頷いた。


「先生」

「行くいく」

「日向って烏野受かりそう?」

「冬休みがんばってたみたいだからなあ」


そんなにレベルの高い学校でもないし、よっぽどのことをやらかさなければ大丈夫だろう。

ひとまず教室の明かりを消して、顧問として教師は教室を出た。
自分を呼びに来た生徒を横目に見る。


「おまえは第二ボタン、誰かにあげんの?」

「な、だ、第二ボタンって、急になんスか!!」

「……そうだよなあ」


普通、こういう反応だよな。

まったくピンときてなかった生徒を思い起こしつつ、教師は腕時計で補講の開始時刻を確かめた。



end.