ハニーチ

スロウ・エール 245





ポケットに入れっぱなしの第二ボタンがいっそう気にかかる。

日向くんは重ねた手に力を込め、けれど、それ以上は続けず、窓の外を見上げた。

風が強かった。
どこからか、まっしろなビニール袋が攫われてきて、パラシュートみたく広がって飛んでいった。


「すげっ、さん、今の見た!?」

「見た、……すごい、飛んだ」

「どこまで行った!? 今日、凧あげたらすげー飛びそうっ」

「あ、あの!」


違う方向に話が転びそうになって呼びかけると、日向くんは見失ったビニール袋を探すのをやめた。

「なに?」

「な、なにじゃなくて」

「うんっ」

「て、……手を」


ここは、学校なので。

日向くんにだけ届く程度に声量を落とし、左右に誰もいないことをチェックした。

廊下には私たち以外いなかったけど、誰も来ないとは限らない。

窓枠に置いた手を視線で示し、もう一度日向くんに戻した。


「手を、ね」

「どうしたい?」


日向くんはこれまでの会話と同じトーンで問いかけた。


さん、どうしたい?」


同時に、ぎゅっと手に力をさらに込められると、密かにドキッとした。
バレてるんだろうか。その前も、今も、全部。


「わ、たしは……」


どうしたい?

すぐ浮かぶのは自分のことじゃなかった。
後にした教室のことで、今日のこのあとの予定だ。


「ひ、なたくんと写真撮りたいって隣のクラスの人来てたから、戻った方がいいって」

「それ、さんがしたいこと?」


日向くんの言うことは、指摘するでも、文句を言うでもなく、どこまでも、いつも通りだった。
ただ、待っていてくれた。

なにを言うべきか迷っている間ずっと、日向くんは私の手を離さなかった。

変わらず、ただ、私を見つめるだけだった。


日向くんは、隣のクラスの人が来ていたから、教室に戻った方がいい……


けど、それは私のしたいことじゃなかった。


「……違う」

「うんっ、じゃあ、さん、どうしたい?」


明るく、なんでもない風に、日向くんは微笑む。
今だけカラッと夏の空気を感じた。

でも、なぜか、悔しくもなった。
同じようにできないのが情けなかった。


「したいこと、……ないよ」


窓の外を見る。

青い空、流されていく雲、その形相はさっき見た時とまたガラリと変わっていた。

卒業式の時は日差しもさしていた空も、今は大きな雲が太陽にかかっていた。


「ほんとにないの?」

「ない」

「おれとの約束は?」

「そっそれは、別!」


それでも、日向くんには他のことを優先してほしくて、私のことは後回しでよくて。


「なんで後回し?」

「準備が、その、まだだから」

「いつ準備できる?」

「い、いつって……「今がいいっ」


断ち切るみたく、日向くんは発した。


「待つけど、待ちたくない。

 気になってる。

 離したくない。

 ……ずっとこうしてたい、話してほしい、大事にしたい。


 おれを、見てほしい」


まるで連想ゲームみたく次々に動詞が並べられ、その意味を悩む間もなく、最後の言葉だけはすんなりと飲み込んだ。


青空でなく日向くんを見つめる。

日向くんはどこか嬉しそうに顔を綻ばせた。


「したいこと、あるならさ、言ってみて!」

「日向くんに?」

「おれじゃなくてもいいけど、おれに言ってくれたら、うれしい!なんでもやる!!」

「なんでも?」

「なんでもっ」


日向くんは楽しそうに言い切った。


「私、無茶苦茶なこと言うかも」

「どんなっ?」

「んーー、例えばー」


そうだ。


「空、とんでみたい」


言ってみて思う。本当に無茶なことだ。

窓の外、見下ろせば、地面がずっと下の方に見える。

日向くんは、なんで空?と否定することなく続けた。


「なんとなく、今日の空、飛んだら気持ちいいだろうなって」


舞い上がる木の葉。

みえなくなった白いビニール。

飛べたらいいのに。

風が髪をなでる。


「飛んでみる?」

「え」

「こうさ、あっちから勢い付けて走ったらさ、ちょっとは飛べるかも!」


日向くんが窓から校舎の中に視線を映し、ずっと向こうからこっちまでを人差し指でなぞった。

廊下を思い切り走って“飛ぶ”、つまり、ジャンプするってことになる。

どう?って日向くんが声を弾ませた。


「日向くん」

「やるっ?」

「なんか、私よりワクワクしてない?」

「エ! わかるっ? おもしろそう!」


フッと笑ってしまった。
肩の力が抜けて、くるりと廊下から視線を外した。


「やんないっ」

「えっ、なんで?」

「廊下は走っちゃダメだから」

「先生いないのに?」

「いなくてもルールは守んなきゃ」


日向くんがちぇーっと口を尖らせるから、それもなんだか面白かった。


「私がしたいことって、そんなのしかすぐ出てこないよ」


もっと、ちゃんとしたこと、言い出せたらいいのに、ずっと、ただ、モヤモヤしたものを抱えてしまう。

抱えたまま、動けなくなって、また自分が情けなくなる。


「それでいいじゃんっ」


日向くんが近くてビックリした。


さんからそういうの聞けてうれしいっ」

「なんで?」

「おれも飛びたいって思う!」


ぴょんっと、今ここでジャンプして見せた日向くんは、私の手を取ったままだった。


「よっ、と!」


次は天井に日向くんの指先が届いた。すごい。


「一緒に飛べるかもしんないし!!

 ……さん? なに?」


こらえきれず笑ってしまう私を日向くんは不思議そうに眺めた。

でも、止まらなかった。

今したいことを問われたら、このまま笑っていたいと答えただろう。


「ごめん」


ひとしきり笑ってから目じりを指先で払った。

変なの。

したいこと、どうしてだか、今わかった。

繋がったままの手に、私からも力をこめる。
日向くんの肩がピョンっと上がった。


「やりたいこと、浮かんだ」

「!な、なに?」

「それはないしょ」


日向くんはあからさまにショックを受けた様子だったけど、構わず続けた。


「ないしょだけど、それ、やり終わったら」


一つ、深呼吸。


よし。



「日向くん、約束、かなえてもらっていい?」

「いいっ!!」


“式終わったら時間欲しい”

その約束は、日向くんにきちんと届いていて、声がかぶりそうな勢いで叶えてもらえることが決まった。

どうしよう。緊張してくる。
それに。


さん、ワクワクしてる?」


なんでわかるんだろう。

日向くんは悪戯っぽく笑った。


さんのことはわかる!!」


す き

日向くんのこと、すきだ。


無性に伝えたくなって、でも、今じゃないって飲み込んで、階段までは手を繋いだ。



日向くんは教室に、私は行くべきところへ分かれかけた時、日向くんに声をかけられた。


「どこで待ってたらいい?」


どこでもよかった。

教室でもいいし、この学校のどこでも、駆けつけられる気分だった。


「おれがさんのところに行ってもいいし」

「いいよ、私が行く」


遠慮もあった。自分から言い出したことだ。
いつも、日向くんからしてもらっている。

階段を下りながら、日向くんを見上げた。


「日向くん!


 ありがとうっ」


「な、なんで、おれっ、なにもっ」


「してくれた!」


なにかを、大きく揺るがす出来事だけが、すべてじゃない。


ああ、そっか。


ポケットの中の第二ボタン、受け取った時にもらった言葉を思い出す。

なにか、してくれてなくてもって。

きっと、いや、自惚れかもしれないけど、そうなのかもしれない。



「日向くん、ぜったい行く。

 待っててね!!」


大きく手を振った。

少しでも早く、と気持ちが走り出す。
駆けださずにいられない。



next.