ポケットに入れっぱなしの第二ボタンがいっそう気にかかる。
日向くんは重ねた手に力を込め、けれど、それ以上は続けず、窓の外を見上げた。
風が強かった。
どこからか、まっしろなビニール袋が攫われてきて、パラシュートみたく広がって飛んでいった。
「すげっ、さん、今の見た!?」
「見た、……すごい、飛んだ」
「どこまで行った!? 今日、凧あげたらすげー飛びそうっ」
「あ、あの!」
違う方向に話が転びそうになって呼びかけると、日向くんは見失ったビニール袋を探すのをやめた。
「なに?」
「な、なにじゃなくて」
「うんっ」
「て、……手を」
ここは、学校なので。
日向くんにだけ届く程度に声量を落とし、左右に誰もいないことをチェックした。
廊下には私たち以外いなかったけど、誰も来ないとは限らない。
窓枠に置いた手を視線で示し、もう一度日向くんに戻した。
「手を、ね」
「どうしたい?」
日向くんはこれまでの会話と同じトーンで問いかけた。
「さん、どうしたい?」
同時に、ぎゅっと手に力をさらに込められると、密かにドキッとした。
バレてるんだろうか。その前も、今も、全部。
「わ、たしは……」
どうしたい?
すぐ浮かぶのは自分のことじゃなかった。
後にした教室のことで、今日のこのあとの予定だ。
「ひ、なたくんと写真撮りたいって隣のクラスの人来てたから、戻った方がいいって」
「それ、さんがしたいこと?」
日向くんの言うことは、指摘するでも、文句を言うでもなく、どこまでも、いつも通りだった。
ただ、待っていてくれた。
なにを言うべきか迷っている間ずっと、日向くんは私の手を離さなかった。
変わらず、ただ、私を見つめるだけだった。
日向くんは、隣のクラスの人が来ていたから、教室に戻った方がいい……
けど、それは私のしたいことじゃなかった。
「……違う」
「うんっ、じゃあ、さん、どうしたい?」
明るく、なんでもない風に、日向くんは微笑む。
今だけカラッと夏の空気を感じた。
でも、なぜか、悔しくもなった。
同じようにできないのが情けなかった。
「したいこと、……ないよ」
窓の外を見る。
青い空、流されていく雲、その形相はさっき見た時とまたガラリと変わっていた。
卒業式の時は日差しもさしていた空も、今は大きな雲が太陽にかかっていた。
「ほんとにないの?」
「ない」
「おれとの約束は?」
「そっそれは、別!」
それでも、日向くんには他のことを優先してほしくて、私のことは後回しでよくて。
「なんで後回し?」
「準備が、その、まだだから」
「いつ準備できる?」
「い、いつって……「今がいいっ」
断ち切るみたく、日向くんは発した。
「待つけど、待ちたくない。
気になってる。
離したくない。
……ずっとこうしてたい、話してほしい、大事にしたい。
おれを、見てほしい」
まるで連想ゲームみたく次々に動詞が並べられ、その意味を悩む間もなく、最後の言葉だけはすんなりと飲み込んだ。
青空でなく日向くんを見つめる。
日向くんはどこか嬉しそうに顔を綻ばせた。
「したいこと、あるならさ、言ってみて!」
「日向くんに?」
「おれじゃなくてもいいけど、おれに言ってくれたら、うれしい!なんでもやる!!」
「なんでも?」
「なんでもっ」
日向くんは楽しそうに言い切った。
「私、無茶苦茶なこと言うかも」
「どんなっ?」
「んーー、例えばー」
そうだ。
「空、とんでみたい」
言ってみて思う。本当に無茶なことだ。
窓の外、見下ろせば、地面がずっと下の方に見える。
日向くんは、なんで空?と否定することなく続けた。
「なんとなく、今日の空、飛んだら気持ちいいだろうなって」
舞い上がる木の葉。
みえなくなった白いビニール。
飛べたらいいのに。
風が髪をなでる。
「飛んでみる?」
「え」
「こうさ、あっちから勢い付けて走ったらさ、ちょっとは飛べるかも!」
日向くんが窓から校舎の中に視線を映し、ずっと向こうからこっちまでを人差し指でなぞった。
廊下を思い切り走って“飛ぶ”、つまり、ジャンプするってことになる。
どう?って日向くんが声を弾ませた。
「日向くん」
「やるっ?」
「なんか、私よりワクワクしてない?」
「エ! わかるっ? おもしろそう!」
フッと笑ってしまった。
肩の力が抜けて、くるりと廊下から視線を外した。
「やんないっ」
「えっ、なんで?」
「廊下は走っちゃダメだから」
「先生いないのに?」
「いなくてもルールは守んなきゃ」
日向くんがちぇーっと口を尖らせるから、それもなんだか面白かった。
「私がしたいことって、そんなのしかすぐ出てこないよ」
もっと、ちゃんとしたこと、言い出せたらいいのに、ずっと、ただ、モヤモヤしたものを抱えてしまう。
抱えたまま、動けなくなって、また自分が情けなくなる。
「それでいいじゃんっ」
日向くんが近くてビックリした。
「さんからそういうの聞けてうれしいっ」
「なんで?」
「おれも飛びたいって思う!」
ぴょんっと、今ここでジャンプして見せた日向くんは、私の手を取ったままだった。
「よっ、と!」
次は天井に日向くんの指先が届いた。すごい。
「一緒に飛べるかもしんないし!!
……さん? なに?」
こらえきれず笑ってしまう私を日向くんは不思議そうに眺めた。
でも、止まらなかった。
今したいことを問われたら、このまま笑っていたいと答えただろう。
「ごめん」
ひとしきり笑ってから目じりを指先で払った。
変なの。
したいこと、どうしてだか、今わかった。
繋がったままの手に、私からも力をこめる。
日向くんの肩がピョンっと上がった。
「やりたいこと、浮かんだ」
「!な、なに?」
「それはないしょ」
日向くんはあからさまにショックを受けた様子だったけど、構わず続けた。
「ないしょだけど、それ、やり終わったら」
一つ、深呼吸。
よし。
「日向くん、約束、かなえてもらっていい?」
「いいっ!!」
“式終わったら時間欲しい”
その約束は、日向くんにきちんと届いていて、声がかぶりそうな勢いで叶えてもらえることが決まった。
どうしよう。緊張してくる。
それに。
「さん、ワクワクしてる?」
なんでわかるんだろう。
日向くんは悪戯っぽく笑った。
「さんのことはわかる!!」
す き
日向くんのこと、すきだ。
無性に伝えたくなって、でも、今じゃないって飲み込んで、階段までは手を繋いだ。
日向くんは教室に、私は行くべきところへ分かれかけた時、日向くんに声をかけられた。
「どこで待ってたらいい?」
どこでもよかった。
教室でもいいし、この学校のどこでも、駆けつけられる気分だった。
「おれがさんのところに行ってもいいし」
「いいよ、私が行く」
遠慮もあった。自分から言い出したことだ。
いつも、日向くんからしてもらっている。
階段を下りながら、日向くんを見上げた。
「日向くん!
ありがとうっ」
「な、なんで、おれっ、なにもっ」
「してくれた!」
なにかを、大きく揺るがす出来事だけが、すべてじゃない。
ああ、そっか。
ポケットの中の第二ボタン、受け取った時にもらった言葉を思い出す。
なにか、してくれてなくてもって。
きっと、いや、自惚れかもしれないけど、そうなのかもしれない。
「日向くん、ぜったい行く。
待っててね!!」
大きく手を振った。
少しでも早く、と気持ちが走り出す。
駆けださずにいられない。
next.