ハニーチ

そこはもう違う景色





「犬岡って悩みなさそうだよねー」


何の話だったかは知らない。

6月のとある昼休み、クラスの女子が廊下の窓に寄りかかって話すのが犬岡走の耳に届いた。

悩み……、そんなにないな。

自分の名前を出されたからと言って口を挟むわけもなし、今しがた手に入れた購買のパンを抱えて教室に戻ろうとしたとき、もう一度自分の名前が話題に出たから、つい足が止まった。


「犬岡くん、休み明け、ちょっと元気なさそうだったけどね」


さん。

同じクラスで、係も同じ子。


「犬岡が?元気ない??」

「ちょっとだけね!」


さんが窓の外を見上げた。


「みえないからって、勝手に決められないと思うんだ」


なにいってんの。

さんと一緒にいた子がそうツッコんでじゃれあう後ろを、犬岡は通り抜けた。

ちらりと彼女を見やって。












さん、あのさ!」

「ん?」

「俺って元気ない?」


クラス全員分のノートを二人で職員室に運んでいる時、犬岡が話しかけると彼女は目を丸くして答えた。


「いや、元気そうだけど」

「そっか。 さっき廊下で元気なさそうって言ってたの聞いちゃって」

「あ」


聞かれていたのか、と気まずそうには顔をしかめたけれど、犬岡は気にする様子もなく続けた。


「自分では気づいてないだけで、元気なかったのかと思って」

「いや、GW明けたくらいのとき、ちょっとだけそう見えただけで」

「えっ」

「あ、ごめ! ほんと思っただけだから、変なこと言ってごめん。早く職員室行こう」


足早に歩き出すのとなりに犬岡がすぐ追いついた。


「俺さっ!」


とびきり大きな声が廊下に響いて、向こうから歩いてきていた教師が驚くのがにはわかった。


「部活でポジション変わってっ」


ゴールデンウィークの遠征が終わったとき、別のやつが俺のポジションになって。

は話の流れに追いつかないものの、犬岡の勢いに飲まれて耳を傾けた。


「負けたのかなって、そんとき凹んだんだけど、今のポジションやるにはもっとがんばらないといけなくて」

「う、うん」

「がんばるぞっていま練習してる」

「うん」

「うん!!」


職員室の入り口に着くと、犬岡がこれまた勢いよく扉を開けた。


「先生! ノート持ってきました」


そんなに大きな声を出さなくても、とは内心思いつつ、手招きする先生のところまで犬岡に付いていった。

用事はすぐおわり、今度はが音を立てずに職員室の扉を閉め、教室に向かった。


「……犬岡くん、バレー部だっけ?」

「そうだよ」

「灰羽くんと同じだ」

「そう! だよ」


犬岡の声のトーンが変わったのに気づいては目を丸くした。

深い理由は知れない。

ただ、彼の言う『ポジションが変わる』というのは、窓際を歩くか教室側を歩くか、みたいな些細な違いでないことだけはわかった。



「私、さ」


が歩く速度を落としたのに、大きな歩幅ゆえにそれなりに距離を置いてから犬岡は気づいた。


「こないだの音楽でさ、ソプラノ希望だったの」

「う、ん」


そういえば、音楽の授業でそんなことがあったような。

犬岡は記憶をたどりながら、さんは、何の話をするんだろうと思った。


「先生、どのパートでもいいって自由希望にしたのに、ソプラノ多いからって、先生が声聞いてパート変えさせてきてさ」

「そうだったんだ」

「男子はバランスよかったから。 女子だけで呼ばれてたでしょ?」


犬岡自身は気にしてなかったけど、ぞろぞろと女子が別室に出ていった記憶はあった。

さんは教室までは向かわず、階段の脇の壁に寄りかかって続けた。


「私、アルトにされて」


アルトってなんだっけ、と思ったけど、犬岡は彼女の話の続きを待った。


「私の声はあのきれいなソプラノに向いてないんだってちょっとへこんだ」

「きれいだよ!」


犬岡の声は響いた。


さんの声、きれいだと思う」

「……ありがと」



でも、きっと、さんにとって、そういうことじゃないんだ。

今、この瞬間、犬岡にとって“腑に落ちた”



「思ってたのと違ってもさ、楽しいかなって。

 犬岡くんも、そうだといいね」


言い終えてから、さんはハッとして俯いた。

自分のことばかりしゃべってごめんと謝られたけど、犬岡にはなんで謝るかはピンとこなかった。

さんは、教室に戻ろうと、くるりと犬岡に背を向けた。

彼女がどんなにすばやく足を動かしても一瞬で犬岡はとなりに並んだ。


さん、ありがと!」

「なっなんで」

「なんとなくっ、さんってこうぎゅんってばんって、こう、すごいよな!」

「なんで??」

「もっと話したいっ」


予鈴が鳴った。

クラスの皆が教室の中に戻っていく。

犬岡くんがを見下ろしている。


「これからもよろしくっ」

「う、ん……よろしく」


は教室の引き戸を引いてから、ロッカーから教科書を出さなきゃとUターンすると犬岡にぶつかった。

固かった。


「ご、ごめん」

「いいよ、大丈夫?」

「うん……」


よろよろとが、ぶつかった鼻を押さえてロッカーに向かっていく。

犬岡は自分の席に向かいながら、いま胸にのこる感覚に思いを馳せた。

部のだれとぶつかったときでも、こんな感じにはならない。変なの。

顔を上げれば、さんが教室に入ってきた。また話しかけてみよう。授業が終わったら、掃除のときでも、これからいくらでも。

end.