ラムネ色した 憐憫 last
年が明け、センター試験を受け、結果を受け取り、一般入試が始まり、また結果を受け取った。
無事に合格を手にし、祝福され、高校を卒業した。
及川くんはお店にずっと来なかった。
は忙しいんだろうと思っていた。
地元を離れないでさえ、入学準備はバタついたし、仲のよかった人たちも周囲も、それこそ、大事にしていた居場所でさえも、春をきっかけに動き出す。
便りがないのが元気な証拠。
おばあちゃんに及川くんが顔を見せないことをこっそり話したら、そう教えられた。
徹ちゃんのことだから大丈夫。
も別に及川くんがどうのって話じゃない。
ただ、自分が、……会いたいだけだ。
そういえば、推薦?どうだったんだろう。
もしかして、大学、東京だったとか?
別段、家族ぐるみの仲でもなかったから、及川くんの進路情報は入ってこない。
それに、メールを送りさえすれば、即レスはなかったけれど、数日~長くて1か月程度には返事がきたから、も深くは考えなかった。
これまでも顔を見せないことは珍しくなかった。
でも、間もなく、大学1年生の冬がやってくる。
12月24日がカレンダーに顔を出しさえすれば、否応なく、及川徹がの中でちらついてしまう。
意を決して連絡を取った。岩泉くんに。
「いま、何て言ったの?
あ、やっぱり、言わなくていい」
は久しぶりのお店の隅っこで、岩泉くんと一緒に肉まんをかじっていたが、今しがた聞いた情報に混乱して一度肉まんを横に置いた。
岩泉の方はもくもくと食べ進めていく。
の食べかけの肉まんからは湯気が立ち上っていたが、次第に収まっていった。
「もう一回聞いていい?」
「ああ」
が質問する内に、岩泉の手から肉まんは消え去っていた。
「及川くん、海外にいるの?」
「聞いてなかったのか?」
「聞いて、ないよ」
が拳を挙げて勢いよく己の足にぶつけた。
訴えかけるべき相手がいない以上、どこかに想いを発散するしかない。
けれど、不毛だ。
手が当たった個所が痛いだけだった。
その様子を眺めていた岩泉がぽつりと言った。
「痛くねーのか?」
「痛い……」
「には話したかと思ってたけどな」
及川くんの進路先、学校でも無茶をすると言われていたそうで。
どこの国ですか。
どうやって行けるの。
なんで、そんなところに、“バレー”しに行ったの。
聞きたいけれど、聞くべき相手は岩泉くんじゃない。
「……年末、きっと戻ってくるよね?」
「さあな」
「岩泉くんもアメリカに行っちゃうし」
でも、及川くんと違ってこうやってわざわざ挨拶しに来てくれた。
「及川くんの、……薄情者」
もし、ここに及川くんがいたら、誰が薄情者だって?って怒るだろうか。
に言われたくないとか、そういうはって反論するだろうか。
困った。
今年に入ってから及川くんに会ってなくて、どんな声か、顔か、薄ぼやけている。
「ねえ、岩泉くん」
「なんだ」
「年末、及川くんが帰ってきたら私にも教えてくれる? ……って、忙しくて無理かな」
「構やしねぇけどよ」
「けど?」
岩泉くんはスマホを取り出して、なぜかに近づいた。
は目を丸くした。
「どうしたの?」
「こうすりゃ早いだろ」
「こうすりゃ……?」
「悪い、触るな」
「う、ん?」
宣言通り、岩泉の腕がの肩に回って、なぜか知らないけど、ツーショットが撮られた。
撮影が終わると、岩泉くんはまた元の位置に戻り、またスマホを操作している。
は状況が理解できないものの、冷めつつある肉まんを手にして口にした。
その間に、別のお客さんが店に入ってきて、おばあちゃんと雑談が始まった。
「これでいい」
「なにしたの?」
「たぶん夜に連絡がある。帰ってくるか本人に聞いとけ」
「え! 及川くんから!?」
「俺もう行くわ」
が口を挟む間もなく、岩泉くんがおばあちゃん達にも挨拶していった。
今日は他にも回る必要があるそうだ。
はもう外にいる岩泉を走って追いかけた。
「ねえっ!」
岩泉くんの隣まで追いつくと、ポケットにしまわれていた手に強引にお菓子を握らせた。
いつもの、これまでと変わらないものを選んだ。
「餞別! それと、いつも、ありがとう。
がんばってね」
もな、そのやり取りもまたこれまでと何一つ変わらなかった。
その夜、本当に及川くんから電話があった。
でも、何言ってるかよくわからなかった。
電波の状況が悪いのか、及川くんの声だとわかるけど、こっちがしゃべったと同時に相手の声が聞こえるようで、いまいち会話が続かなかった。
そうこうする内に、
『俺はもう行かなくちゃならないから行くけど、“浮気”なんて許さないからな!』
とだけ言い残して電話が切れた。
通話終了の文字が画面に出たかと思うと、いつも通りのホーム画面に切り替わる。
はスマホを握りしめたまま、眉を寄せた。
……うわきって、あの、浮気?
文句でも言いたくてリダイヤルしてみたものの、一向に出てくれなかった。
年が明けた。
及川くんは帰ってこなかった。
また1年過ぎた。
やっぱりまた帰ってこなかった。
ずっと、ずっとずっと、このお店にいた。
大学生活もそれ以外にも時間は費やしたけど、は約束通り、ここで待っていた。
ここを守ろうって思っていた。
でも、待てば待つほど気づいてしまった。
ずっと、ずっとずっと、ずーーっと、ここで待ってなんかいられない。
も大人になる。
新しい場所に行かないといけない。
何かを、ずっと留めておくことなど、できやしないんだ。
“博物館もそうだろ”
“わからないやつらにとってはガラクタでも、わかる人間にしたら、宝の山だ”
何度、この言葉を反芻しただろう。
“ここ”に価値がある。
意味がある。
すごく大事な居場所だって。
でも、何年もひとりでいたら気づいてしまう。
ここが大事だったのは、及川くんが来るからだ。
みんながいるから、大事にしたかった。
お菓子を食べた思い出がある。
泣きはらした昼時もある。
遊び疲れた夕暮れがある。
笑いこけた夜がある。
どれも似たようで違う日々。
ささやかな、なんでもない時間。
何も起きない、変わらない場所。
必要なのは、店そのものじゃなかった。
だれもいなくなった“ここ”は、なんになるんだろう。
ねえ、及川くん……
いつまで待ったらいい?
質問の答えは自分の中にない。
しばらくすれば、自分もここを離れる。
だから、もう、会いに行くことに決めた。
待てないって、言わなくちゃならない。
せめて、直接。
*
及川くんは、ここにいるのか。
24時間以上のフライトの後、地面に降り立ってみて、ようやく海外に来たんだと実感する。
心なしか日本よりも空が青い気がする。
は時差ボケしつつもある種の興奮から眼が冴えていた。日差しが眩しい。ここは朝だった。
日差しも日本より強い感じだ。
このまま太陽の下にいると身体的にもよくなさそうだし、なにより観光客ですと看板を掲げているようなものだ。
初・海外は油断大敵と、今もなお仲の良い友達に口を酸っぱく言われていた。
よし、とも気合いを入れ直し、さっそくホテルまで移動した。
滞在期間もあまりない。
今日の夕方、調べた場所で試合があるという。
試合が終わってからは近くの寄宿舎に戻り、明日の試合にそなえるそうだ。
練習場所も確認しているし、試合後のタイミングを狙えばいい。
はあえて自分が行くことを言わなかった。
メールのレスがあったりなかったりする相手に伝えたところで、という気持ちもあったし、驚かせたいのも半分、あとは、何かあったときに、人知れず帰国できるようにしたかった。
だって、こっちで誰かと“結婚”している可能性もなくはない。
もういいんだ。
“ずーーーーっと”がないなら、どこかで、向き合わなくちゃ。
ホテルの部屋はとてもシンプルで、用意したスーツケースすら開けづらかったけど、なんでもよかった。
自分が快適に過ごすための荷物というより、及川くんに会うための装備を詰め込んだ。
ちなみに、“いつもの”も持っていこうとしたけど、ソーダ水なんてスーツケースに入れるのはやめた方がいいと友達に怒られた。
手荷物はどうだろうと調べても、水分は没収対象だった。海外って厳しい。
諦めて現地購入することにし、運よく、ホテルの売店で瓶のソーダを発見できた。
しかし、栓抜きを忘れてきてしまった(正確には手荷物に入れていたら、危険物として没収された)
どうしたものかと頭を悩ませていると、親切なホテルの人がキャップは外してあげるよと親指を立てて笑ってくれた。
でも、まだ買わないよと説明し(試合を見た後に買う)、2本のソーダ水を予約した。
バレーの試合のチケットは日本で事前に買っておいた。
がんばればなんとかなるものだ。
及川くんのおかげでは自分の世界が広がった気でいた。
空を見上げる。
同じ空。
ずっとずっと同じ空の下にいるのに、ずーっと会えなかったのが不思議だ。
やっと会える。
フワフワとした心地では試合を観戦した。
及川くんがどこにいるかすぐ見つけられた。
はいつか見た試合を思い出した。
とうの昔、高校3年生の記憶。
“春高”をかけた県大会。
が記憶する及川徹の試合も、キラキラとしたスポットライトの下だった。
あの時と“今”が、かさなる。
歓声は全く違うのに。
いけいけ青城、なんて聞こえてこない。
異国の地で、知らない言語が飛び交い、いろんな国の人たちが座る客席から及川くんを見つめ続ける。
孤独。
不安。
一人ぼっち。
こんなに人がいるのに、なんでこんな気持ちになるのか不思議だった。
でも、ほんとうに“独り”な訳じゃない。
及川くんがいる。
は、及川徹を見つけられる。
“ずーーーーっと、ここで待ってろ”
唯一の声が響く。
灯みたいな声。
あの時が浮かぶ。
コートがまぶしい。
もしかすると、ここには……
このコートのなかには、“ずーーーっと”があるのかもしれない。
自分たちの場所は、もう、無理かなって思うけど、でも、ここなら、及川くんにとって“永遠”の居場所になるかもしれない。
“はなんにも知らなくていい”
そこに、自分はいられないけれど。
は視界が急に滲んだ。
俯いている内に、点数が入った。
サービスエース。
何語かわからなかったけど、近くのお客さんが及川徹を褒めたことはでもわかった。
試合は勝った。
観戦後、かんたんにホテルの部屋で夕食を済ませ、予定通りに、ソーダの瓶を二つ買った。
会うのはやめようかなとも思ったが、にこにこスマイルのさっきのスタッフさんに『やっぱりいらないです』と言えるほど、も神経は図太くなかった。
飛行機に乗ってここまで来たし、ソーダ水を2本とも自分で飲む気もしない。
キャップを外してもらい、及川の所属するチームの寄宿舎に向かった。
の調べによると、すぐ脇にスポーツセンターが併設されていて、選手は試合後の調整をおこなうそうだ。
運がよければファンサービスもしてくれるとある。
はそこを狙っていた。
「……でも、なあ」
あんな、試合を見てしまったら、もう、言いたいことが全部吹き飛んでしまった。
カッコよかったんだ。
身一つで、外国のユニフォームをまとい、チームで居場所を持つ及川くんはかっこいい。
の知る、いつもの及川くんじゃない。
いや、とっくにの知っている一面など、なくなっているかもしれない。時は過ぎた。
“ずーーーっと”のありえるコートに居続ける及川くんと、大人になろうとする自分。
……大人になるって、諦めることなのかな。
“ずーーーーっと、ここで待ってろ”
そんなの無理なんだって、そう、伝えるためにここに。
「」
その声をよく知っていた。
振り返れば、及川くんが立っていた。
その装いを見るに、ランニングの最中だろうか。
は、瓶を取り落とした。
キン、とガラスが地面にぶつかってはじけ、のスニーカーと、及川のそれにもソーダ水が染みこんでいった。
は抱きしめられていた。
及川徹に、強く、閉じ込められてる。
頬に、固い何かが当たっていた。
「なんて、……は、愚かなんだろうね」
内容はどうあれ、及川の声に安堵し、はじんわりと涙を目に湛えた。
ほんと、そう。
なんて自分はバカなんだろう。
ここまで来て、色んなことを考えて、“いつもの”なんて持ってきて。
会ってしまえばすべてわかった。
は及川の背に腕を回した。
きっと、の胸元のリングも及川に押し付けられているだろう。
「待てなかった」
が小さく呟くと、ようやく二人、向き合い、そして。
「は、ほんッとバカだよ」
及川はのすぐそばで呟き、返事を待たずに唇をふさいだ。
end.