「おつかれさまっ」
試合が終わった。
三人から離れてくるたった一人に駆け寄り、ペットボトルの水とタオルを差し出した。
なんだか同じ学校のときを思い出した。
「サンキュっ」
翔陽もまた、昔のように受け取った。
受け取ったものを不思議そうに眺めて、こっちを向いた。
「、どこで買ったの?」
「あっちに売店があるって教えてもらった」
一緒に買ったのは、トートバックだ。
このビーチに、ヤシの木に、観光スポットのシンボル。
いかにもここに旅行しました!って感じのイラストが印刷されていた。
袋の中身は、翔陽と試合していた人たちの差し入れ、ビール缶2本。
あの人たちはまたメンバーを入れ替えて新たな試合を楽しんでいる。
タオルで汗をぬぐう翔陽に軽く寄りかかった。
「1試合で終わらなかったね」
「ご、ごめん!」
「いいよ」
そんな予感はしていた。
お詫びのつもりか、肩にかけていたトートに翔陽が手をかけたから、そのまま預けた。
何が入っているかと聞かれたから、誕生日プレゼントのビールだと答えた。
またビール!?と驚いていたけど、試合相手の人たちがくれたと説明すると納得していた。
ビーチバレーはスポーツ競技であり、娯楽の一つでもある。
身軽になった私は、海へと駆け出した。
観光客も少なくなっていて、波の音が一定に響き、全体的に落ちつきがあった。
沖は暗い。
空には雲一つない。
ふりかえると、翔陽が少し小さく見えていた。
さすがの翔陽も疲れたのか、走って追いかけてこない。
この先は海だからはぐれる心配はないと思っているのかもしれない。
せっかくなので、靴を脱いでそろえた。
海の音は、どこの世界でも同じだ。
足先を入れると冷たいんだろう。
正解は、やっぱり冷たい、だ。
服が濡れてしまわないように注意して、バシャバシャと進んでみた。波が引いて、また寄せてくる。
私が靴を脱いだ場所に、翔陽が立っていた。
翔陽が私を見ていた。
そんなに離れてはいないけど、近くもない。
お互いを見守るのにちょうどいい距離だった。
どちらの声も届くくらいの、隔たり。
「翔陽」
「なに?」
「プレゼントあげる」
「ビール?」
「ちがうよ」
翔陽がトートバックを指差したから、笑って首を横に振った。
「部屋でいっぱいもらったけど」
「うん、……あげた」
私も、もらったようなものだけど。
「まだくれんの?」
「いらない?」
「いる!!」
「返事はやいね」
笑って返すと、がくれるものはなんでもうれしいって翔陽は力強く言い切った。
「なにくれんの?」
翔陽の瞳が、光っていた。
今度は、夜景じゃない。
ビーチバレーのコートを照らす明かりでもない。
私は波に足を取られないように注意しながら、その場で少し足踏みをし、両腕を動かした。
砂浜で翔陽がやっていたみたく、準備体操の代わりだった。
その様子を、翔陽は見守ってくれていた。
「みててね」
ひとつ、深呼吸した。
この感じ、とても久しぶりだった。
指先に全神経を集中させ、その先にいる相手を想った。
ばしゃり、と水面は音を立て、って翔陽がトートバックを投げ捨てて駆け寄ってきた。
用心していたけど、足がもつれてしまった。
予想より水がはねて足元が濡れていた代わりに、翔陽が飛んできてくれたから転ばずに済んだ。
ビーチバレーに参加しなかったのは賢明な判断だった。
肩を抱いてくれた翔陽に、大丈夫だよと笑顔をみせて、あっちを指差した。
「あげる」
そこに、月があった。
今晩は、満月。
まるく、白く佇んでいる。
雲一つない世界にぽつりと浮かぶそれは、私にはボールにしか見えなかった。
「トス、あげたから、打ってね」
何を言われたか確認するように、翔陽は空を見上げて、もう一度私を見て、ふたたび、私が指さしたお月さまを見つめて、大きく頷いた。
立てる?
聞かれたから、大丈夫と答えると、翔陽は私から離れ、波打ち際まで戻り、靴も脱がずに勢いよく助走をつけて、跳んだ。
文字通り、飛んでいた。
すごい。
やっぱり、すごい。
ついさっきトスを上げる真似をしたからわかる。
こんな波が行き来するこの場所で飛ぶのは難しい。力がまっすぐ伝わらない。
それなのに、こんなにも跳べるのか。
気持ちの高揚もあるんだろう、ビーチバレーの試合の時より高く飛んで見えた。
相手は月だ。
届くはずない。
私だって、この指先で触れてもいない。
それでも、託した想いは相手に届いている気がした。
華麗に振り落とされた翔陽の一打は、あの遠くの水平線に叩き落とされたように見えた。
水滴が舞う。はねた雫がきらめいている。
翔陽はびしょ濡れになるのを躊躇しなかった。
私の時よりずっと、ずっと大きな歓声のような水しぶきが目にも耳にも激しかった。
それでいて、空に浮かぶ満月が海面に揺らめく様子は、ただ、ただ、おだやかだった。
「!」
名前を呼ばれたけれど、別の響きをもって聞こえた。
翔陽はまた波打ち際まで戻って、跳んだ。
とんで、あの月に向かって右手を伸ばす。
もう一度、もういっかい、何も考えずにそばに居られた頃のように、何度でも。
「翔陽っ」
いつまでもやめないから声をかけると、やっと翔陽はその場で動きを止めた。
びっしょりと濡れた翔陽の髪から、水滴がしたたっているのがわかる。
「風邪、ひくから」
同じく立ち尽くしていた私も、やっと自分の靴のある場所へと引き上げた。
振り返ると、変わらぬ位置に月があり、翔陽が立ち、砂浜にいま自分の歩いてきた跡がある。
すぐに波がここにいた痕跡をさらっていった。
濡れたままだけど靴に足を入れ、砂浜に放り出されたままのトートバッグに手をかけた。
「帰ろう」
「すきだ」
声が重なったのに、ちゃんと何を言われたか届いていた。
すきだ。
もう一度言われた言葉の向けられた対象は、トスのような気もしたし、私自身のようにも感じたけど、確かめないでおくことにした。
「まだあるけど」
月を指差した。
「今日はここまでね」
「……わかった」
このボールは欠けていく。
満月を見るたびに、翔陽が私のことを、今日のことを思い出してくれたらいい。
あれ、でも、満月になる時間帯も変わったような。
なんだったっけ、と考えていると、ひんやりとした指先が私の手に触れた。
翔陽の手だった。
「つめたく、なっちゃったね」
「は、あったかい」
「あっためてあげる」
手が暖かいのが冷たい性格だから。
昔、そんな話をしたことがある。
迷信でも悪くはない。
こうやって、優しい人を代わりにあたためてあげられるんだから。
、はなして。
言われるがままに、温めていた手を離すと、抱きしめられていた。海の匂い、翔陽に。
「会いにきてくれて、ほんと、
……ありがとな」
背中に回る腕に、この力強い抱擁に、なんでだか立っていられなくなりそうだ。
大げさだよって笑いたいのに、声を出したら泣いてしまいそうで黙った。
翔陽ごしに月が見える。
まるい月。
日本に帰ってもきっと同じ月を眺めるだろう。
この地球が一つであるように、この月もまた一つだ。
つながっている。
私たちは、つながっている。
だから、だいじょうぶ。
「愛してる、」
さんざん受けとめていた愛情でとっくに胸がいっぱいだったのに、こんな、大切な一言をもらってしまったら、気持ちは、あふれてしまう。こぼれてしまう。
翔陽の肩に、顔をうずめた。息遣いも悟らせたくなかった。
よかった、翔陽が濡れてて。
海もなみだも同じだ。しょっぱく浸った翔陽の服にいまさらどんな痕跡もわからない。
しがみついて、しばらく、動けなかった。
なんでもないって、顔に、なっていただろうか。
しばらく抱き合っていたけれど、帰らないわけにはいかないので、気合いを入れて翔陽から離れた。
声を弾ませ、もう戻らないとね、と元気を込めた。
翔陽もひとつ頷いてくれた。
となりを歩きながら、翔陽は途中でまだビーチバレーをしている人に声をかけて、下宿先に電話をした。
今夜は戻らない。
TOEICのリスニング問題に出てきそうな、流ちょうな響きだった。
「……大丈夫?」
「なにが?」
「戻らなくて怒られたりしない?」
海に濡れた私たちはバスに乗る訳にもいかず、徒歩でホテルに向かった。
この辺は観光客が多く、この時間でも道を選べば歩いて帰っても大丈夫だそうだ。
私の心配をよそに翔陽はやさしく首を横に振った。
「俺のほうが、の保護者におこられそう」
いろんな人たちの顔が浮かんで、まさかと首を横に振った。
念のため『誰にも言わないよ』と付け加えて。
「帰ったらさ」
てっきりホテルに戻った時のことかと思った。
「ちゃんと挨拶しようと思って」
「あいさつ?」
「とのこと、ちゃんと」
「閉まってるんじゃない?」
「閉まる??」
フロントの人に何か話すのかと思って、ホテルの受付時間を伝えると、翔陽は違うと笑った。
さっきの“保護者”の続きだった。
日本にいる、私の周りにいる人たち。
「いっいいよ、そんなの!」
だいたい、何を話すんだ。
「なにって、これからのこと」
翔陽は当然のように歩きながら続けた。
「こっ、これからって?」
まるで将来のことを話すみたいで声が裏返ってしまった。
翔陽の方は淡々と歩き、しゃべり続けた。
「日本帰ったらさ、ちゃんと報告しようって思ってる」
「バレー……、のことでしょう?」
「そう、バレー」
ホッと胸をなで下ろす。
無駄に緊張してしまった。
翔陽は、バレーのために、いまビーチバレーをしているんだから、当然の成り行きだろう。
「バレー、だけどさ」
車道にかなり乗り上げている自動車を避けながら、予期せぬ反語に驚きつつ、聞き逃さないように翔陽のあとに続いた。
「のこと、おんなじだなって思った」
「……?」
翔陽の話は、ときどき、話が飛んでいる。
いつもならまだすんなり理解できたかもしれないけど、もう、何が何だかわからなかった。
どういうこと?
そう尋ねると、翔陽は声がよく聞こえるように、かはわからないけれど、私の肩をゆるく抱いて話した。
「トス、あがってない時間も、ぜんぶ、繋がっててさ」
いま、この時間もぜんぶ、試合するための時間で、試合と同じで。
どうやってコートに居続けられるんだろうって思うと、ほんとうに、“ぜんぶ”なんだって。
「わかるっ?」
きら、きら、きら。
ちか、ちかちか、外灯の明かりがまたたいている。
「な、なんとなく」
私の答えに翔陽は笑って、それと同じでさ、と続けた。
「といない、俺の時間、ぜんぶ、といるんだってわかった」
翔陽は、街の明るさでみえない星を探すように、夜空を見上げた。
「これから先ずっと、そばにいるときも、いないときも、いれないときも、全部、俺はといる。
こっち来て、……よく、わかった。
だから、ちゃんと気持ち、
つーか、けじめっていうのかな。
宣言っ?
のこと、大切にしてる人たちに
言っておきたいっ」
これから先ずっと、
俺はのそばにいます、って。
いさせてください って。
曇りなく、躊躇もなく、緊張だってしないで、あまりに自然に話すから、何を言われたか、私のほうが間違ってるのかと思った。
まだ濡れている翔陽の服を引っ張ると、こっちの気も知らないで、『ん?』と、ひどくやさしい眼差しで翔陽がふりかえった。
あ、のさ。
「……プロポーズ、されてる?」
「ぷろぽーず?」
「違うならいい「ぷろっ!?」
「いっいいから! いいの!ごめん、忘れて!!」
ぐい、と引き寄せられ、顔を覗き込まれる。
「プロポーズって結婚、のこと、だよっな!?」
「いいからっ!」
「ちっ、ちがくはないっ。 いつかはって、……今、すぐは、無理、だけど」
翔陽の言葉の最後の方は消えかけていた。
すごいこと言っといて、いま照れるなんてズルすぎる。
翔陽の胸板を押し返した。
「わわかったから、翔陽近すぎ」
「嫌なのかよ」
「い、イヤじゃないけど」
「けど?」
「き、急な話、するから」
「ご……ごめん」
少しだけ距離を置いて、けれど離れすぎないで、また歩くことを再開した。
この通りを抜けたらホテルが見えてくる。
次第に同じ速度になって、並んで歩いていた。
「?」
手を伸ばし、翔陽の手を握ると名前を呼ばれた。答えはしなかった。
翔陽が手を握り返してくれた。
翔陽がこっちを見ているのがよくわかったけど、自分の靴先を見つめ続け、歩むべき道のりだけを見据えていた。照れくさかったのもある。
「ちゃんと、うれしかったよ」
聞き逃してもいいくらいの、小さな声で答えた。
ホテルの入り口は、相変わらず花壇が暗く、ライトアップされていた。
バータイムも間もなく終わる。
お客さんはいるのに、扉にはCLOSEの札がかかっていた。
来た時と同じ階段は、ぎしぎしと同じくらいの音がした。
踏み出すたびに、翔陽に聞かされた“宣言”がちらついた。
日向翔陽の未来には、私が、いるらしい。
「、こっち」
自分の泊まる部屋のある廊下を間違えた。
翔陽が明るく教えてくれた。なんでもない話の続きのように。
鍵はやっぱり開けづらくて、翔陽に任せて開けてもらった。
「、どーぞ」
「ありがと」
レディファースト、この国で学んだのか、いや、いつもさりげなく、そういうところがあったように記憶する。
まるで、大切なもののように扱われている。
わたしだって。
「おかえり」
くるりと振り返り、後から入ってきた翔陽に抱きついた。
おかえり、翔陽。
濡れた翔陽の衣服から、ゆっくりと私の方に水分が伝わってくる。
「ただいま……、
……、もうちょっとだけ、」
待っ てて
言葉にされてないのに、申し訳なさそうに聞こえた気がして、唇を押しつけていた。
明るいものだけを、抱えていて欲しい。
何度もくりかえし、抱きしめ、抱きしめられた。
next.