中学生になったばかりの5月のことだ。
「危ないっ!」
何かが目の前を通り過ぎた。
ボール、それもバレーボール。
派手に飛び跳ねて止まる。
だれか走ってきた。
小さな男の子。
「ごめん、大丈夫だった!?」
お互い、一目でわかった。
ボールは私に当たってないし、ボールの持ち主は彼だ。
あ、ボール。
足元まで転がってきたそれを拾おうとすると、男の子は自分でやると言ってすばやく掴んだ。
「バレー部?」
相手は大げさなほど肩を揺らして固まった。
そんな、おかしなこと言ったかな。
「バレーボールだから……バレー部かなって」
相手は少しも動かない。
「そ、それだけ。 じゃっ!」
気まずくなって資料室に向かった時だ。
「ありがとう、さんっ!」
大きく声が響いて、足音が遠のいて行った。
先生の頼まれごとを片づけている最中に、ふと思い出した。
今の……、日向、翔陽くん。
少し大きめの、真新しい制服。
一番初めのクラスでの自己紹介、バレー部に入るって宣言してた。
だから、バレーボール持ってたんだ。
合っててよかった。
すぐ後、うちの中学に男子バレー部がないことを知った。
*
「ってバレー経験者?」
体育の時間、友達が話しかけてきた。
今日はバレーボールだった。
体育館の端っこで体育座りをしつつ、頷く。
友達は続けた。
「バレー部入んの?」
「ううん、もう、他のことやりたくて」
中学に入る前から用意してきた答えだ。
ただ、肝心の“他のこと”が決まってない。
「だったらさ!」
違うチームのバレーの試合が目の前のコートで開始され、合図と友達の声がかぶった。
「家庭科部、どう?」
考えたこともなかった、文化系の部活。
色んなモノを作ったり、お菓子が食べられるのはいいかもしれない。
様子見を兼ねて、まずは今日の放課後に見学することになった。
悪くない。今から楽しみ。
密かに胸を躍らせる私の隣で、友達は片腕を伸ばして言った。
そう、ボールを打つみたいな素振り。
「さっきの試合、のボールやりやすかったよ。さすが経験者って感じ」
「そ、そうかな……」
「ボールの方から寄ってきてくれたっつか、ジャスト!!って感じで気持ちよかったー」
友達が、さらに褒め続けてくれた。
たぶん連続得点できたのが嬉しかったんだろう。
あんまり褒められると照れてくるし、つい調子にも乗ってしまう。
「つ、次、もっと打ちやすくする!」
「やった、できんのっ?」
「それくらい、ぜんぜんっ」
余裕っ、
とまでは言わないけど、そのくらいの気持ちで次の試合に参加した。
結果は勝利。
相手チームがまともにレシーブできずに終わった流れだけど、友達は見事にスパイクを決めた。
久しぶりに狙って出したボールは、予定していた位置からぶれた。
相手に届いてよかった。
高く、丁寧に、相手へ敬意を込めて。
なつかしい感覚だった。
制服にもどった頃には、指先から消えた。
「、ちょっと!」
体育のバレーの余韻が残る午後、美術室に向かっているときだ。
友達がわざわざくっついて話しかけてきた。
「なに、なっちゃん」
「日向がさ、後ろで見てたよ」
「なにを?」
「のこと」
「私?」
思わず背後を確認したけど、日向君はいない。
友人曰く、友人が気づいたのに慌てて別の階段を降りていったらしい。
なにか、用事でもあったのかな。
「いや、恋だね」
熱い眼差しだった、と友人は楽し気だ。
浮かんだことをそのまま口にする。
「日向くんと話したことないのに?」
「ないの?」
「たぶん、一回も……」
ちゃんと面と向かってはない、気がする。
私自身、男子とは極力関わらないようにしていた。
男子は苦手だ。
ちょっと身長が高いからとか、ちょっと持ち物が目立つ色だとか、そんな些細な理由で小学校の頃にからかわれた経験がある。
日向くんとならしゃべってみてもいいなって思うけど、特にきっかけもない。
「私から話しかけた方がいいかな」
振り返っても、やっぱり日向君はいない。
恋愛説がなくなり、友人は興味なさげに言った。
「ほんとに用事がある人は自分から声かけてくるんじゃない?」
「そっか……、そうだね」
日向くんが、本当に私を見ていたかも分からないし、やめとくか。
美術室はクラスの人で半分くらい埋まっていて、その中に日向くんはいなかった。
その後、日向くんから話しかけてくることもなかった。
*
「ねーー、なっちゃん聞いて!!」
中学2年の春、新しいクラス、教室。
自分の席に座る友人は笑った。
「下駄箱、まちがえた?」
「じゃなくて教室っ、もー、はずかしかった!」
「中まで入ったの?」
「入ったっ、みんなこっち向くし、さいっあく」
「まーまー」
友人に慰められても羞恥心は消えない。
あーもう、なにやってんだろ。
「日向もさ」
いきなり出てきた名前に面食らう。
日向、くん。
「下駄箱まちがえたーってさっき叫んでた」
教卓の前に集まる男子たちの中に、日向くんを見つける。
バレー部、志望の人。
なんでだか、その部分だけやけにはっきりと覚えている。
相変わらず接点はない。
新学期も同じクラスではあるけど、席は離れていた。
ふと気を抜くと、一年の教室に入ってしまった失態を思い出してしまう。
「……あーーー、みんな間違えるなら、仕方ない、よね、うん!」
「と日向以外、間違えた人いなそうだけど」
「人がせっかく前向きになろうとしてるのに。
ねえ、追い打ちやめてっ」
新しい担任の先生が来て会話は終わった。
ホームルーム、去年辿ったようにまた部活紹介がある。
日向くんと話す機会はなかった。
ちょっとだけ気になった。
男子バレー部、どうなったかなって。
配られたプリントの中に、バレー部を見つけた。
男子バレー部じゃなくて、愛好会だった。
バレーをするためには6人いる。
部活になるためには3人の部員がいる。
誰か、入ってくれたらいいな。
って、私には関係ないんだけど。
「ねー、ー、1年生どれくらい入ってくれるかなー、文化祭を考えるといっぱいいたほうがいいよねー」
「文化祭って、まだ4月だよ」
友人は、半年もしたらまたお菓子をたくさん作る羽目になることをもう心配した。
たしかにおいしそうな甘い香りは幸せになるけど、四六時中まとわりつく程作るのは別だと主張される。
「……私も、お菓子の無限ループ思い出してきた」
「ほらっ、やっぱ1年いるよ!」
「いるね! よし、がんばろ!!」
気合の入った部活勧誘は成功、1年がたくさん入ってくれた。
足をはずませ、部活に向かう。
よく、日向くんを見かけた。
1人だった。
たまに誰かといるけど、すぐまた1人に戻ってる。
ボールで練習してる。
いつも1人。
私の気のせいかなって思うのに、そうじゃないと思わせられる姿。
バレーは、6人でやるものだ。
ひとりじゃ、できない。
「先輩、ちょっと今いいですか?」
「んっ、なに?」
「この編み目なんですけどー、ちょっと見てください、あ!」
「いいよ、ゆっくりで」
次に顔を上げたとき、日向くんはいなかった。
*
「みんな盛り上がってるね」
中二の夏休み、文化祭に向けて家庭科部は絶賛作品作りに燃えていた。
後輩たちが楽しそうにおしゃべりしているところから少し離れてミシンを引っ張り出す。
友達は慣れた様子でエプロンを作っていた。
「水族館のニュースだってさ」
「ニュース? なんか面白いものでも見れるの?」
「イルカの赤ちゃんが一般公開だって」
「いいねー!」
今度行きたいね、なんて話をして、結局行かなかったけど、なんでだかよく覚えている。
*
「っち、何やってんのー?」
中二の秋、文化祭前。
友達が向かいの席に座って、私の机の上を覗く。
「これ、文化祭の当番表?」
「そうだよ、部活が忙しい人たちの調整してる」
特定の人たちからの要望がうるさ、いや多い。
「帰宅部の人にがんばってもらえばいーじゃん!」
「クラスのことだし、偏りがあるのもね」
「ひなちゃん、いいじゃん、部活ないし!」
「ひなちゃん?」
そんな子いたっけ、と思ったら日向くんのことだった。
たしかに、ひなたで、ひなちゃんか。
勝手に書き出した友達の文字を消すべく、消しゴムを手に取った。
「あー、っちがー!せっかく書いたのにー!」
「はい、邪魔しない」
女子らしい丸みのある文字を、丁寧に消しゴムでこすった。
日向くんはバレー部だ。
運動部の人の当番の調整はついている。
友達は目をパチクリさせた。
「女子バレー部なの?」
「男子バレー部でしょ、日向くん」
「うちの学校に男バレないよ! ねー、ちなっちゃん、ないよねー男子バレー部ー」
自分が絶対正しいと疑わない友達は、他の子に意見を求めた。
それでも私は、日向くんのことをバレー部だって思っていた。
形じゃなくて。
あれだけバレーをしようとしてる人を、バレー部として認めたい。
バレーから遠ざかろうとしているくせに、バレーに向かう日向くんが気になり続けた。
ただの、クラスメイトなのに。
*
文化祭は無事に終了、クラスの方は展示だけだったからあんまり大変じゃなくて助かった。
おいしいと評判の家庭科部の喫茶店は、今年も大盛況だった。
体育祭も、テストも、なんだかんだ乗り越えて迎えたクリスマス。
ケーキを受け取りにいつものお店に行くと、なんだか騒がしかった。
ショートケーキを予約し忘れたって人がお店の人に頼み込んでいる。
代わりにチョコケーキを出してもらってたけど、そんなにショートケーキにこだわりあったのかな。
家でショートケーキを食べたとき、その出来事が浮かんだ。
いつものクリスマス、外はとても寒そうだった。
*
「、あけましておめでとう」
「けーちゃん!おめでとう!
あっ、お年玉は?」
「じーさんにもらえ、じーさんに」
久しぶりに会った従兄弟はやっぱりタバコの匂いがした。
お母さんが渡す荷物を詰め込んでいる。
「」
「なに?」
「たまには、じーさんとこ、顔出せよ」
「お正月の挨拶はしたよ」
1月に会ったとき、いつもよりせき込むことがあったけど元気そうだった。
従兄弟が言いたいのは、そういうことじゃないらしい。
「……たまには、バレー、付き合ったらどうだ」
「繋心くん、ちょっとー」
母親が奥から声をかけた。
適当にあいさつをして自分の部屋に戻る。
バレーボール。
祖父の家、従兄弟。
いやでも浮かんでくる私の大半を占める思い出。
一気にあの時の感覚が目を覚まし、私に気づいてと訴えかけてくる。
やめよう。
やめたの。
バレーは、もう、おなかいっぱいだ。
*
中学3年生、春。
また日向くんと同じクラスになった。
つい、日向君を気にしてしまう。
恋愛の好きだとか、そういうんじゃなくて、今もまだ男子バレー部にこだわってる理由が気になった。
だから、4月、バレー部員が入ったと職員室で偶然耳にした時は、密かに心躍った。
「そんなに喜ぶことかね」
私の相手をしてきた先生は、向こうで泣いている?日向くんたちの会話を受けてこぼした。
先生に提出物を手渡した。
「日向くん、ずっとバレーやりたかったから」
「それは知ってるけど……中学生なんて可能性は無限なんだよ?」
先生は、提出物を確認しながら続けた。
「一つのことにこだわってたら他のチャンスを見逃しやしないかねぇ。
はい、オッケー」
用は済んだから、教室に戻るだけ。
なのに、先生の後ろ姿に話しかけていた。
「あ、あの」
「ん?」
「一つのことに、こだわったらダメですか?」
私には、ない。
日向くんみたく、あんなに強くやりたいって思えるもの。
出会えたらきっと、必死になると思う。
なにもない、空っぽの自分。
先生は、一旦引いた椅子をまたデスクから離して私の方を向いた。
「、世の中はなあ」
お茶を啜ってから続いた。
「不思議なもんで、ほんとーーに縁があることはこっから先、何度でもチャンスがあるんだよ」
先生は、まだ中学生にはわかんないだろうが、と付け加えた。
「安心して、今できることをしなさい。
あとになってな、その、たった一つ、二つかわかんないけど、その“何か”に出会ってない時間も、意味があったんだーって思い知るもんだ」
でも、“今”やりたいのに。
日向くんは、ずっとバレーやりたがってた。
釈然としないものの、反論は胸に秘めて職員室を後にし、ふと窓の向こうを見た。
きれいな、光景。
やわらかな日差しの下、桜が咲き誇り、穏やかにゆれる。
はじまりを予感させる、まさに春。
神様が、
もし、本当にいるんなら、
何かの間違いで、日向くんにバレーのチャンスをあげ忘れたんじゃないかって思った。
日向くんたちの公式試合は1回戦で終わった。
next.