ハニーチ




バレンタインデー。

今年もやってきた、特別なひとに想いを贈る日。

街に出れば、あちこちでバレンタインデーと称されたコーナーに出くわすこの季節。

華やかに彩られたチョコレート売り場。
甘いものが苦手なあの人向けにと称して、香りだけを活かしたものからお酒まで。
食べ物の枠を一歩踏み出し、愛しのあの人を誘惑しよう、なんて謳い文句で、甘やかなメイク品に、TPOを考えない洋服、とびきりの下着までが上から下まで飾られている。

ある意味、一年で一番エネルギッシュなイベント。
あの手この手で人々の熱を煽ろうとする勢いに、かえって素知らぬ顔して通り過ぎたくなるけれど、やっぱり、たった一人が思い浮かぶわけで。

ひとまず、行きやすい場所へ。

手作りチョコレートのコーナーは、どの季節よりも浮足立っているものの、お客さんの雰囲気は、これまでのどこよりも密やかでもあった。


「これでいいかなー……こっちのがおいしそうだけど」
「友チョコは数だよ、数!」


そんな会話をする学生さんの集団。

すぐそばにある100円ショップも、一番目立つ位置はハートから始まる大小さまざまなお菓子の型にチョコレート。数々のラッピング。
完成できなかった場合を考慮してなのか、最初からプレゼント仕様のチョコレートも山ほど陳列されていた。

家庭科部じゃなくともこの時期ばかりはみんながチョコレート関連のグッズを抱えている。


すべては、好きな人にチョコレートを贈るため。

日向翔陽。

ただ一人の相手に出会っているなら、一大イベント、とまでは言わないまでも、看過できない一日だ。

なにしたって喜んでくれるだろうけど、だからこそ悩む。



「待って、やっぱ予備買ってくる!!」


レジに並んでいた高校生か中学生か、列を飛び出してまたチョコレートコーナーに戻っていった。

商品かごには手作り用の同じものがたくさん入っている。
棚から手にしたのは同じ商品、ではなくて。


「……っ」


思わず他の棚を見るふりをする。

つい、変な好奇心を働かせてしまった。

商品を入れたその子は、友達とは離れた位置に並び直してレジの順番を待っていた。


いま入れてたの、本命用だ。

数がいっぱいのラッピングじゃなくて、唯一人に向けた小箱。


みんなに見られたくなくて、わざと列を抜けたのかも。
人目を気にする頃、その気持ちを細やかながら思い出す。

スマホが揺れる。

チラと画面をチェックすると、日向翔陽の名前とともに『はやく会いたい!!!!!』の文字。

携帯端末は元あった場所に戻して、ぐるりと店内を見回した。

レシピの並ぶ本屋さんが目につく。


“一味ちがうバレンタインデー特集!!”

雑誌をめくりながら、胸の内を整理する。

当日にあげなくても、なんて思った過去もあるけれど、……やっぱり「好きな人を喜ばせたい」。

本を選んで腕に抱き、いざ、一歩を踏み出した。
















Chocolate Code













2月13日、恋人の訪れる夜は、何度迎えてもどこかくすぐったい。

クリスマスの時みたく連絡もなしに押しかけ、いや、わざわざ来てくれる恋人というのも、人に話せばうらやましがられるけど、やっぱりこっちもきちんと迎えたいし、こうやって待っている時間も楽しみたい。
必ず守られる約束は心弾ませるものだ。

呼び鈴が響いた。

ばたばたと玄関に向かったものの、足音ではしゃぎすぎているのがバレるかもと忍び足に切り替える。

翔陽のために並べたスリッパを踏んづけてしまわないよう大きな一歩を踏み出して、訪問者がほんとうに日向翔陽かを念のためチェックした。

この待ちきれない様子でそわそわしている人物、あの翔陽じゃなくて誰なんだ。

外はやっぱり寒いのか、頬が赤らんでいた。


「おかえりっ!」


扉を開けて飛びつくと、抱き留めてくれた腕がどこかひんやりしていた。

ただいま、っ。

元気よく頭上から降ってくる聞きなれた声に安堵して、早く入って、と翔陽の腕を引っ張る。
広くはない玄関だけど、腕を離さなかったし、振り払われもしなかった。

翔陽の手にはいつものバッグと他にも荷物。
移動が多いと大変だよなと思っていると、お土産を渡された。遠征先の名物だとか。バレンタインとは微塵も関係なさそうな商品のくせして、ハートの絵柄がプリントされた特別仕様だ。


、どうかした? それ嫌い?」

「ううんっ、ごはんは?食べる?」

「だいじょーぶっ」


うちに来るのにも慣れた翔陽は、いつもの定位置に荷物を置いて、コートを適当な場所に片づけていた。
と、思うと、なぜか両腕を広げて立っている。

何してるんだろう。

……ヨガかな?


「ちがくてっ、今ならが抱きついて大丈夫です!」

「あっ、今はいいよ」

「いいよってなんだよ!!」

「今の翔陽は冷えてるから」


あっためてあげる、という発想のなかった私の反応に翔陽が目に見えてしょげたので、リクエスト通りに首に腕を回すと、すぐまた翔陽は声を弾ませて私の名前を呼んで強く抱き留めた。

とはいっても、今日はもう夜遅い。

いつまでもくっついているわけにもいかず、お風呂に入るよう促すと、えーーと子どもっぽい不満げな抗議だけで離れようとはしなかった。


は?」

「私はもう入ってるから」


わざわざ髪に顔をうずめなくともわかるだろうに、翔陽はご丁寧に確かめてから長くため息をついて渋々身体を離した。

よしよしと頭を撫でると、じっと目が合う。


「なに、翔陽」

……わかっててやってるだろ」

「なにを?」

「かわいい!!!」


ここで、きゃっと本当に可愛らしい声でも出せればいいけど、勢いに押されてこけないようにするのが精いっぱいだった。

いつも思うけど、翔陽の『かわいい』と思うタイミングがさっぱり読めない。うれしいけど。

ともかく明日がバレンタイン本番、今日は早く寝るに限る。

お風呂に入って一緒に寝よう。
そう繰り返しても、だだっこの如く翔陽が床に座り込んでしまった。
私を抱きかかえたまま。するりと服の上を滑る手の動きに用心しつつ、顔を覗き込んだ。


「ほーら、翔陽」

「俺はと会えてうれしいっ。は?」

「そりゃうれしいよ」


また抱きしめられる。力いっぱい。
いつものパターンだ。


「ならもうちょっといいじゃん!」

「ダメ」

「なんで?」

「先にお風呂入んないと離れづらくなる」

「俺は今も離れづらいっ」

「あーーそう! わかった」


そっちがその気なら、こっちも考えがある。

翔陽が目をぱちくりさせた。


「お風呂にも入ってこれないような人にはチョコレートあげないからね」

「あんの、チョコ!? それってバレンタイン!?」

「明日は14日だから……でも、もういいの」


回されていた腕が外されて、すっくと翔陽が立ち上がってどこか真剣な面持ちで私を見下ろした。


「風呂、行ってくる」


ばたん、と扉が閉まる。

なにその変わり身。チョコ効果すごい。


一人噴き出して何気なく選んだ動画を再生すると、いよいよバレンタインデー!と高らかに広告が流れた。




















ーー……もうちょっと、したい」

「だめ」

「なんで……」

「そんな眠そうな顔して理由聞く?

 ……翔陽」


おだやかに布団に組み敷かれ、ふれあって、軽く押し返して見上げて、伸ばされた手のひらをやんわりと外した。

物足りなさそうな眼差しには欲求だけじゃなく、たしかに睡魔が忍び寄っているのが分かった。

お風呂上がりの翔陽はポカポカしていて、さわってると心地よかった。


「いっしょに寝よ、ねっ」

「ちぇーっ」


観念したのか、翔陽がゴロンと隣に寝転んだ。

さすがに悪いなという気持ちもこみ上げて密着する。翔陽も見つめてきた。

、眠くないの?
翔陽の声色がどこかそっけないのは、怒ってるんじゃなく、ただ単に眠気に負けているだけだった。

規則正しく生活している翔陽は、普段はもうとっくに眠りについている。私といる時はいつも翔陽の日常がズレ始める。

そう感じる時、翔陽のそばに自分がいない方がいいんじゃないか、と無意識に思ってしまう。




名前を呼ばれたかと思うと、額に口づけが落とされた。

翔陽は言葉に出さなくても何かを察知して、こんな風に“すき”という気持ちをやんわりと意識させる。

もう一度、静かなキスをされた。
それは、はじまりの合図じゃなく、おやすみのサインだったから、大人しく受け入れた。


遠く離れたところからわざわざここまでに会いに来てくれる。
愛情を感じないわけがない。

明日もまだ、いっしょにいられる。


「翔陽、おやすみ」


部屋の明かりを落とそうとした手のひらが捕らえられ、翔陽の口元に運ばれていった。く、すぐったい。


から、ちゅーないの?」


目線は大人っぽいのに、要求してきたのがおやすみの……って、なに、それ。


「おやすみ」

「おでこかよ!」

「翔陽も同じだったよ?」

「俺はっ、からっ」


口にっ


言わせなかった。

電気も消した。その瞬間、もう一度引き寄せられて3秒、5秒、いや、10秒、もっと。

真っ暗闇に目が慣れる頃、ようやく翔陽の唇が離れ、やっと満足したらしかった。

、おやすみっ。また明日っ。

晴れやかな声、こっちの気も知らないで。寝るって、言ったのに、これだから翔陽は。


















真夜中0時過ぎ、をさらに過ぎた頃、こっそりと起き上がった。


となりですやすやと眠る翔陽を起こさないように注意しながら、ベッドから抜け出す。


日付はもう変わって、2月14日だ。

悩みに悩んだ贈り物は、細やかなチョコレートと、ちょっとしたお遊び。

たまにはこういうのもいいだろう。

気づいてほしいような、気づかなくてもいいような……真夜中のかくれんぼよろしく、手始めにするりと上着を脱いで着替えを始めた。

















朝早く、何かが動く気配がした。

翔陽が起きたんだと布団に入り込む冷気で気づいて、もぞもぞと布団を引っ張ると短くごめんが聞こえた。
布団から顔を出すと、昨日の夜とは打って変わって翔陽の瞳はばっちりと輝いていた。


「おはよう、

「ん……」

「起こしてごめん。ちょっと行ってくるな」


こくりと頷いて目を閉じる。

行ってくる、というのは、日課のトレーニングのことで、継続は力なりを思い知っている翔陽は、いつでもどこでも早朝のランニングを欠かさない。

行かないでって服を引っ張ってみようかとも思ったけど眠気が勝っていた。

それに、今日は仕込んだものがある。


「ん??」


翔陽は、1つ目に気づいたらしい。

布団の中から様子を確認する。さすがに私の視線に気づいたらしく、ふたたび翔陽がベッドに腰を下ろして、小さなカードをこちらに見せた。


「これ、?」


私が置いたのか、という意味で翔陽が私に尋ねた。答えはイエス。可愛らしいメッセージカードはバレンタイン仕様の装飾付き、1/7という数字と“affection”という英単語。

どういう意味?ってのん気に聞いてくる翔陽の背中に抱きついて、まずは一つ目を贈った。

受け取った本人は固まったのち、!?!って朝に相応しくないほど大きな声を上げた。
いきなり動かれて、顎を肩にぶつけられそうだった。危ないあぶない。


、いま、イイイ今さ!」

「ハッピーバレンタイン、翔陽」

「ばっばれんたいんっ?」


枕元に添えた小箱には気づかなかったらしい。

朝一番にチョコはどうだろう、と思いつつ、ガナッシュ入りのチョコ一粒だけの入った箱を開けてみせた。


「ほら、これが一つ目」

「ひ、とつめって……まだ、あんの?」

「七分の一って書いてるでしょ」

「書いてある!!」


翔陽が心底驚くから、なんだかおかしくて笑ってしまった。

寝ぼけた目元をこすって続けた。


「7個ね、プレゼント隠したから見つけてね」

「7個も!!?」

「そんないっぱいないよ、こういう一粒ずつ」


指先でつまんで、翔陽に近づくと、どこか緊張した面持ちだった。

そりゃそうか。捕捉しよう。


「もうほっぺにちゅーはしないから」

「なッ、……なんで」


していいのにって不服そうな顔。

ご機嫌を取るべくチョコレート一粒を、翔陽の口元に運んだ。


「チョコ一つ見つけられたら、その意味と同じところに、……“ちゅー”しようと思って」

「ちゅっ!?」


驚きすぎて口がうまく回っていない翔陽に、1回目だしと多めに見て、もう一度“好意”を意味する頬へのキスを一つ贈った。
ぽかん、と開いた口に、チョコ一粒も押し入れる。

翔陽の口がモゴモゴと動いている。1つ目、完了。


「おいしい?」

「おいひい、へほさ!!」

「けど?」


折角の一粒だというのに翔陽は一気に噛み砕いて飲み込んでしまった。

咳ばらいをしたかと思うと両肩を掴まれた。


からチューしてくれんのうれしい!!」


面と向かって言われると……


「照れてるも可愛い!!」


そっぽを向いて早く行くよう促しても、満面の笑みで抱き寄せられた。


「いいからランニング」

「なあなあ! あと6回、からちゅーしてもらえるってこと!?合ってる!?」


合ってる、けど、改めてこんな喜ばれると嬉しい気持ちとはずかしい気持ちがこみ上げてくる。


「……翔陽が見つけられたらね」

「ぜったい見つける!! どこにあんの?ベッド?」

「わっ」


布団をいきなりめくられてびっくりする。


「ベッドにはもうないよ!」

「範囲は!?」


俄然、このバレンタインプレゼントのかくれんぼにやる気を出したらしい。

送り主としては、そうこなくっちゃ、である。


「私の管理できる範囲だから、この部屋とかね。一回見つかった場所にはもうないよ」

「わかったっ。 他にヒントは?」

「数字と英単語はカードじゃない場合もあります」

「え、これと同じじゃないってこと?」


翔陽が怪訝そうな顔をして、見つけたばかりの1/7のカードを眺めた。


「このカードそのままだと隠しづらくて」

「あ、チョコ発見!」


読書灯のすぐそばに添えた同じ手のひらサイズの箱を、翔陽はすばやく発見した。
手に取ってすぐ気づく。


、カードは?」


内心ほくそ笑む。


「言ったよ、カードのままだと隠しづらいって」


正直言ってしまえば、答えそのものは翔陽の目の前にある。

けれど気づかない翔陽は、チョコは戻して読書灯を覗き込んだり、二つの枕をどかしたりしてカードを探し、見つからないとわかると、役目を終えた1枚目のカード、1/7 と数字と「affection」の英単語をもう一度眺めた。


「そういや、これってどういう意味?」

「“好意”」


直球の説明を伝えてみると、うれしそうに翔陽は表情を緩めた。


「俺がすきってこと?」


頷くと、俺も好きと返ってきて腕に閉じ込められ、手放された1枚目のカードが床にすべって見えなくなった。

腕の力が弱まると、今度こそランニングに行くんだと思ったのに、頬にくちびるの感触。すぐ離れたのは意外だった。


「俺からもバレンタイン」


頬にキス、それのことらしい。


「いってくる!すぐ帰る!!」


声を弾ませて翔陽が鼻歌交じりに家を出た。

キスされた頬には、まだ感覚が残っている。

2つ目のチョコレートは、手付かずのまま。




next.