ラムネ色した 憐憫 12
本当に来るのかな、及川くん。
曇天のクリスマスイブ、こういう日は一層冷え込む。
世の中には楽しいイベントがそこかしこで催され、この店にわざわざ来る人がいなくてもおかしくなかった。
万年、とは言わずとも今日はほぼ開かれていない扉。
だれかが開けた。
冬と一緒に及川徹が入ってきた。
「……なーに、みてんだよ。、手、動かせ」
「はぃ」
しばしが見つめてしまうと、及川が少しだけ居心地が悪そうに視線をそらしつつ諭した。
も手持無沙汰で続けていた商品整理をやめ、レジにもどった。
開きっぱなしのノートも閉じる。
年末に受けた模試の復習をしていた。第一志望はB判定だった。
その間に、及川がマフラーを外し、カバンをいつもの定位置に置いた。
いつもというのには、ずいぶん久しぶりだったけれど。
「久しぶり」
シンクロした。
そう思ってしまうほど、絶妙なタイミングで及川がに声をかけた。
の動揺を知ってか知らずか、あえて無視しているのか、調子を変えずに、及川は小銭をトレイに落とした。
「、いつもの」
は出された硬貨をみて、手を止めた。
及川が続けた。
「もたまには一緒に飲もう。ここ、ストーブついてるし、寒くないだろ?」
「……うん」
は下がって“いつもの”緑の瓶を2本取り出した。
最近、頼む人はずっといなかった。
夏の忘れ形見のようなガラス瓶は、室内の明かりに照らされると、クリスマスツリーのように深い緑色が透けていた。
は一瞬迷って、結局、それぞれの瓶にストローを刺した。
白くて細い、真っ直ぐなストロー。
お待ちどおさま、とが瓶の一つを持って及川のところまで持っていくと、ありがとうと短くお礼を言って及川はそれを受け取った。
は天井の方にあったかい空気がたまっているなあと足を少し止めると、片手を掴まれて引き寄せられるまま着席した。
及川くんのとなり。
「も座れば?」
「でも」
「もう店じまいだろ」
及川くんの指摘する通り、間もなく小学校のチャイムが聞こえる頃合いだ。
冬休みが始まるこの時期に店を遅くまでやるメリットはほぼない。
いや、この店を開き続ける“利点”なんて、客観的にはもうとっくにないのだろう。
「……じゃあさ」
はやんわりと及川の手を外した。
「自分の分、持ってくる」
及川はを引き留めはしなかった。
ただ、が戻ってくるのを眺め、待っていた。
レジ前に置いていたソーダ瓶は、中の気泡のせいか、細いストローがぷかぷかと浮き上がっていた。
が及川のとなりに収まる。
及川が自分の瓶を差し出した。
「、乾杯」
「……かんぱい」
も瓶同士はぶつけずとも、“乾杯”らしく自分の分を上下させてからストローを口にした。
ソーダ水はよく冷えていた。
懐かしい味のまま、昔飲んだ時と変わらない甘さ。
暖房が効いているとはいえ足元だって冷える。
はてっきり肉まんでも及川くんは所望すると思っていた。
当てが外れたなとストローを銜えつつ、チラと向けた視線がばっちりぶつかってせき込んだ。
の背中をさする手にはびくりと肩を揺らした。
「だっ大丈夫だって!」
と言いつつ、またせき込んでしまった。
まさか目が合うと思っていなかったから油断した。
結局、落ちつくまで背中をさすられ、本当に大丈夫と判断されてからその手は離れた。
「ってほんっと危なっかしいよね」
「そんなこと!」
「いーやっ、俺がいたからおぼれずに済んだけど、いなかったらどうなっていたことか」
そのソーダをくれたのは誰だと。
は言葉に出来ず(してもいいけど、どうせ口では勝てないので)、ストローを行儀悪く噛んで少しずつソーダを吸い上げた。
その隣にいる及川は、ストローを外して一気に瓶をあおった。
また目が合ったけど、今度はせき込まずに済んだ。
せき込んだのは及川の方だった。
「だっだいじょ、「大丈夫!」
「でも」
「いいから! 俺がいいって言ってんだから、そのまま動くな」
は自分がしてもらったように及川の背中に触れようとしたけど、それは叶わなかった。
まだゴホゴホと及川くんがせき込んでいたけど、たかがソーダの一気飲みのため、次第に収まったようだった。
「だいじょーぶ?」
「大丈夫! そう、言ってるだろ」
「ん……」
「信用できないって?」
は首を横に振った。
そんなことはなかった。
「俺は、……大丈夫だ」
及川はそう言って、中途半端に空中を行き来していたの手を捕まえて、そのまま握りしめた。
なんにもないように。
の手の方が冷たかった。及川の手のひらは暖かかった。それに、肌が少し硬い。
は身じろぎ一つせず、ストローを銜えてソーダ水に集中した。
甘い冷たさが身体の芯を通っていく。
あと少しでなくなりそうだ。
最後まで飲み切ったら、この時間も終わる気がして、残り1センチ程度だろうか、中身を残しては瓶を脇に置いた。
「たまにはいいね、ソーダも」
「ここ、暑いからな。ずっといたら寝そうだよ」
及川くんはもう一方の手で口元を覆いつつ、欠伸をした。
「下の方は寒いよ」
「あったかい空気は上にいくから、エアコンよりこっちのほうがいいんだってさ」
「そうなんだ、さすが、頭いいね」
「も習ってるはずだけど、まさか授業中寝てた?」
「ま、まさか!」
「受験生、しっかりやんないと浪人するから気を付けなよ」
「及川くんは?」
は見慣れた店内のほうを向いたまま切り出した。
「そーいう……及川くんこそ、ちゃんと、勉強してる?」
「さーーーてね」
「センター試験、もうすぐだし」
年明けにあるのは、なにも“春高”だけじゃない。
バレーをしていない高校3年生にだって、色んなことが待っている。
未来は全員にやってくる。
「俺は、それ受けないんだ」
及川くんは自然に答えた。
だったら、推薦?
「どうだろうね」
含みのある答えだった。
推薦、じゃなくて、推薦みたいな半分受験形式だとか?
もスポーツに長けた人物の受験方法など知らなかったし、及川もはっきりとその内容を説明しようとしなかった。
「そういうこそ、ずっとここで遊んでていいのかよ」
「あっ遊んでない」
「ここに就職するわけにもいかないんだし、ちゃんと勉強しないと」
「及川くん、どっかいくの?」
今度はきちんと及川と向き合っては尋ねた。
どうして?
及川の声はさっきまでより低くなった。
機嫌、悪くなった。
それでも、は続けた。
「ふたりで……、ここ、守ろうって、前に」
話した、よね?
の声は消えかかっていた。
及川がとつないだ手を離した。
は寂しさを表に出さないよう努めた。
「俺が、にウソついたことあった?」
一度離れた手は、の肩に触れ、を引き寄せた。
バランスを崩したが及川の胸元にもたれる格好になる。
思わず身を引こうとすると、及川の腕がそれを制した。
の面前に青葉城西のネクタイがよくみえる。
鼓動が早かった。
すぐそばだった。
これは、どんな状況だろう。
は混乱しつつもさらに腕に力を籠められると、必然的に顔は相手にぶつかってしまう。
頬に当たる固い何かに気を取られつつも、やはり離れようとは身体を起こした。
「おっ及川くん」
「なに? 今忙しいんだけど」
「忙しくはないとおもう……」
「誰かさんが動こうとするから気が抜けない」
「意味がよく……」
「の学校は頭でっかちすぎるんじゃないかな、今どき何が起きても臨機応変に対応しないと不測の事態に」
こま、る
及川くんの言葉が途切れた。
がネクタイのその向こうにある“指輪”を探り当てたから。
チェーンに通した、あの時の指輪。
いくらなんでも、及川くんのネクタイを解くことも、シャツのボタンを外すわけにもいかず、本当にあの指輪か確認する手立てはない。
けれど、は確信していた。
同じものをずっと身に着けていたからわかる。
これは、去年の“今日”、及川くんからプレゼントされたものと同じだ。
『けっこうした』って言っていた、あの。
「指輪?」
「……だったらなんだよ」
「私も、わたしも付けてる」
返事の代わりに強く抱きしめられ、息が止まる心地がした。
くるしいよ。
が訴えると、数秒後に腕の力が緩まった。
ポーン、ポーンと、店の奥にある私的な部屋から時計の鳴る音がした。
それが合図になったのか、及川くんがを離し、立ち上がった。
何事もなかったかのようにコートを羽織り、マフラーを巻いていく。
はその様子を座ったまま眺めた。
いつもはレジから見る光景が新鮮に感じられた。
及川がを撫でた。
「もう行く。
受験、がんばれ。
……年明け、連絡がつかないこともあるけど、ちゃんと、に会いに来るから、心配しなくていいよ」
が及川のひらりと翻したマフラーを掴むと、及川が足を止めた。
「俺を絞め殺そうって?」
「私にできること、ある?」
の脳裏に、青葉城西高校の試合結果が浮かんだ。
「なんでも、わたし」
はマフラーの端っこを握りしめた。
「ずーーーーっと、ここで待ってろ。
って言ったら、は律義に俺を待っててくれるのかな」
「待っててほしい?」
私に、及川くんは。
「及川くん、私のこと」
人差し指がの唇を押さえた。
「まだ、な」
魔法にかけられたかのごとく、から力が抜ける。
するり、肌触りの良いマフラーが手の中から消え、冬と共に及川徹が立ち去った。
あたたかさと変な感覚が徐々に遠のいていく。
そうだ、片付け。
ぼーーっと5分くらいしてから、はそう思い、まずは余らせたソーダ水を飲み干した。
気が抜けて一層甘くなっていた。
next.