ラムネ色した 憐憫 4
もう、治ったね。
及川はの手首に遠慮なくふれた。
は、そんな及川を思い出してため息をついた。
いきなり現れ、いつものと注文し、にちょっとしたおやつを買い与え、頼まれてもないのに察しよく店の手伝いをして去っていく及川徹。
おばあちゃんが揚げて砂糖をまぶしたパンの耳を持ってくる頃には、もう及川の姿はなかった。
入れ替わりに小さな男の子たちがいたから、おばあちゃんはそれを振舞った。
『お加減はいかがですか』
その子たちのお母さんとおばあちゃんが以前のように会話するのを聞きながら、今日のはやりかけの宿題に手を付けることにした。
及川くんは忙しいらしい。
1年生だけど、先輩たちが部活を引退したから、2年生としてこれからもっと大活躍を期待されるそうだ。
及川くんは自分で自分のことをすごいと説明した。
本当かなあとは思ったけど、岩泉くんから『結論を言えば本当だ』って聞いた。
また知らない及川くんがひとつ増える。
おばあちゃんから分けてもらった懐かしいおやつをつまみつつ、は宿題に精を出した。
は勉強してえらいねと褒められる。
こんな風に過ごしていると、まるでもっと幼かった頃に戻れる気がした。
及川くんがいたらその当時を再現できそうなのに、練習がまだあるそうで、あっという間にここからいなくなった。
それでも、また来ると言っていた。
及川くんは謎だ。
あのスケートの日のことを話題にすることもなく、かといって他に遊びに誘ってくれることもなく、変わらず、このお店に顔を出す。
ちょっと変わったといえば、お店の手伝いをしてくれるようになった。
たぶん、手首を痛めたから、重たい荷物を持たせないようにしてくれたんだろう。
『が運んでると見てられない』
とか言ってたけど、本当は手助けしてくれる口実だったんだと思う。たぶん。
色々文句を言いつつ、私の手首がこれっぽっちも痛くなくなるまで及川くんは手伝ってくれた。
こんな風に話すと、やさしい人に聞こえる。
でも、実際、彼女がいるのに別の子を遊びに誘うのはどうなんだろう。
名前はぼかして友達に相談すると、不誠実だと、名無しの権兵衛くんこと及川くんのことをなじった。
そんなやつにの貴重な青春を使っちゃいけないと断言された。
信頼できる子の言葉なのに、なぜだろう、はやっぱり及川と距離を置くことが出来なかった。
『、いつものっ』
呼びかけられると胸の中で何かが芽生える。
しばらく来ないと、お店の戸が開くたび、期待する。
岩泉くんを見かけると、一緒に来てくれたじゃないかってつい探してしまう。
そこで、自分はバカだなあって嫌悪するまでがワンセット。
そうこうする内に、高校2年生になって、おばあちゃんが体調がよくなったから、店番をしなくていい日が増えた。
は長く学校や家で過ごすようになった。
その結果、及川と顔を合わせる日がさらに減った。
もともと、この店も生活がかかっているものじゃない。
近所の人たちや、やっぱりこういう駄菓子屋さんを好いてくれる子どもたちのためにやっているようなもので、が店番を絶対する必要もなく、休み休みおばあちゃんが店に出る程度でかまわなかった。
お金が欲しいなら、もっと効率のいいアルバイトもあるだろう。
にとって、ここは、昔からの居場所だし、勉強部屋だし、遊び場だった。
離れてみて、はじめて気づけた実感だった。
高校2年にもなれば世界も広がる。
は友達に誘われて、はじめて他校の男子と会うことになっていた。
夏休みがはじまってすぐの予定。
つい浮かれて、岩泉に今度“ごーこん”に行くと告げると、なんだそれって顔をされた。
は、男女の出会いの場だよ、と告げた。
種を明かせば友達に教わったばかりのワードだが、ここでは、誰も使わない言葉だし、も友達に教わるまではさっぱりと縁はなかった。
なんでそんなもんに、と様子も変えずに岩泉が尋ねると、なんとなくね、視野を広げたくなったんだ、とは答えた。
岩泉くんは買ったばかりの麦茶をもう半分にしていた。
冷房はまだ使っていない店内、は置きっぱなしのウチワを手に取ってあおいだ。
扇風機はあるけれど、いつもの席くらいまでしか風は届かない。
ウチワはすっかり日焼けして黄ばんでいたけど、あおぐ分には支障なかった。
生温い風でも、ないよりはいい。
『らしくねーな』
岩泉に言われて、のウチワは止まった。
『そんなの、興味なかったろ』
『なっ、なかった、けど、……ちょっと変わってみたくなって、ほら、美容室も変えたんだよ。かわいい?』
岩泉は興味を持った様子はなかったが、何度もがかわいいか聞くから、適当に短く頷いた。
は、去年のスケートのこともあって、違う美容室に行くようになった。
考えすぎなのは重々承知しているが、美容師さんに、こないだのデートはどうだった?と聞かれたくなかった。
『おばあちゃんがお店出てくれるからね、夏休みも遊べるの』
は声を弾ませる。
うれしいのは、別に他校の男子と会えるからではない。自分が店番しなくていいからでもない。
おばあちゃんがお店に出られるくらい元気でいてくれる。
その事実こそがうれしかった。
正直、他校の男子は怖くもある。
水分補給を終えた岩泉を、店の外までが見送った時、小さく呟いた。
『……男子って、こわくないよね?』
岩泉は小首をかしげた。
『俺も男子だろ』
『それはそうだけど……、岩泉くんは別』
『及川は?』
『それも別だよ』
岩泉くんと及川くんが怖いわけない。
同じ男だろと岩泉にツッコまれ、も言われてみればそうだよなと頷いた。
『小さいころから知ってるからかな、岩泉くんはやさしいし』
及川くんも、ずっと、このお店にいる時しか知らないけど、やさしい。
『……今度会う人たちも、きっとやさしいところ、あるよね』
まだ会ってもいないのに、いや、よく知らないからこそ警戒するのも失礼な話だ。
は気を取り直し、また話聞いてねと明るく岩泉に告げて手を振った。
青空を見上げる。
まもなく夏がやってくる。
白い雲に及川くんを思い描き、そろそろ違う人に目を向けるべきだと自分自身を叱咤した。
女子高だからチャンスはないものと思っていたけれど、その気になれば、渡りに船、そういうことに詳しい人も友達にいた。
その子たちから聞くに、夏は出会いに向いているそうだ。
もしかしたら、運命の人にばったり巡り合うかもわからない。
は期待に胸を膨らませ、その日を待ち望んだ。
しかし、の希望は叶わなかった。
夏休みがはじまったばかりの当日、ファミリーレストラン、向かい合う男女。
片側のソファー席に女子が座り、は一番端っこに座っていた。
反対側にはもちろん男子がいる。
たまたまバレーに強い学校の人たちだった。かなり有名なところらしい。
午前中も部活だったそうで、ジャージ姿だった。
見る人が見ればわかるらしいが、はさっぱりだった。
最初に友達に説明された時も、バレーかあ……とは密かに複雑な思いを抱いていた。
青葉城西高校じゃないだけましかもしれないけど、それにしたってバレーの強い学校というのは、のなかで及川徹のイメージが強すぎた。
その人たちは同じ2年生で、レギュラーではないそうだ。
でも、その部にいるだけでもすごいことだと話していた。
は知識もなく、そうなんだなあと相槌を打って、ストローを口にした。
お店のと似てるかなとソーダにしたけど、ここのは甘すぎる気もした。
『ちゃんはバレー興味あるの?』
きらきらとバレー部の凄さを語っていた相手に尋ねられ、は思わずせき込んだ。
ただの会話だって言うのに、どうして動揺してしまうんだろう。
のなかで、バレーがあまりに及川と紐づいていた。
及川くんはバレーをしている。
その事実はにとって数少ない及川に関する情報だった。
『興味……』
『あるなら、今度練習見においでよ、試合もあるし』
やっぱり青葉城西に試合を覗きにいった日を思い出す。
でも、いつまでも、及川くんの記憶で立ち止まっているのもおかしいんじゃないか。
はふとそんな気持ちになって、氷が溶けだしたソーダから手を離した。
いつあるの?
そう聞こうと思ったのに、大きな手のひらがテーブルにバンっと現れて、何事かとは目を丸くした。
『2軍の試合みても面白くないよ』
『は?』『なんで』
と向かいの男子の声は息ぴったりとばかりに重なった。
そりゃそうだろう、二人の驚きは合致していた。
白を基調にしたジャージ姿。
青葉城西高校男子バレー部の証明であり、着ている本人もまた目を引く容姿。
及川徹。
その場にいたバレーに強い学校の男子たち全員の視線が達の方に、いや、正しくはたちのテーブルのそばに立っている及川に注がれた。
誰だって知っていた。
自分たちの学校と何度となく対戦している高校のセッター、同じ2年の及川徹。
『は俺の試合も見ないんだから、よそのを見るわけないよね』
『な、な』
『はじめまして、がお世話になってまーす』
『やめてよ!』
『なんで? 挨拶しないと。前からきちんとしないとって思ってたし、まさか、こんなところで会うなんて』
及川の手がのびる。
は肩に力が入って動けない。
『ほんとーーに奇遇だよね。
俺たち運命かなっ』
及川がをなでる。
にこやかに微笑まれても、の方は同じように振舞える余裕はなかった。
及川がご丁寧に、この時期に2年生でレギュラー入りしていない+夏休みの練習真っ盛りの時期に女の子と遊んでる時点でバレー部員としては終わってると説明してくれても、相手の男の子たちが文句を口にしてもさらりと理不尽に返り討ちにしても、の友達とも仲よく会話を弾ませても、の中の時間は止まったままだった。
まるで状況を飲み込めない。
及川が言いたいことだけ言って、気分転換も大事だよね、楽しんで、と他人事として締めくくった時、はようやく及川を追いかけることが出来た。
『お、及川くん、なんで』
なんでここにいるの。
なんで声かけてきたの。何したの。なにしてるの。
言いたいことが大渋滞だ。
ただ、最近、ずっと、顔、合わせてなかった。
会えて……うれしい。
そう感じてしまうのが自分でも不思議だった。
の肩に、及川の腕が回り、距離が縮まった。
『こそ、俺とデートした靴でなんで他の男と会ってんのさ』
の足元は、たしかにあの時と同じだった。
レンガに引っかかり、ヒールの片方に少しばかり傷がついている。
『ホント、ムカつくよ』
の耳に及川のささやきが届くと、ふわりまた、何もなかったかのように及川はから離れた。
ムカつくって、それ、なに。
めちゃくちゃにひっかきまわしといて。
奇しくもが立ち尽くしていたのはドリンクバーの前だった。
ぐるぐるとスムージーがかき回され続けている。
の心の中そのものだった。
『ひどいと、ひどいと思わない!?』
『、追加』
『ありがとうございます!』
は夏休みのある日また店にやってきた岩泉に、人生最初の“ごーこん”の結果を説明したけれど、興味を少しも持ってもらえず、いそいそとレジに置かれた商品のお勘定をした。
アイス、自分も食べようかな。
蝉の音がいっそう激しくなる季節、自分のお小遣いで、岩泉も買った、当たりが出るかもしれない氷菓子を手に取った。
ここでは、レジでのんびり食べても怒られない程度のゆとりが常に流れている。
『そういうのは本人に言えっていつも言ってんだろ』
『本人がいないもん』
『連絡先』
『知ってるけど……』
『当たった』
岩泉くんは当たりの棒を見せてくれた。
は、どうぞ、もう一本と冷凍庫を手で示した。
『面倒だな』
『へっ』
自分でアイスをとるのは手間なんだろうか。
はそう思ったけど、岩泉の言わんとしていることは違った。
『お前ら二人、どっちもめんどくせーよ』
ガリ、ガリ、ガリ、と勢いよく、同じアイスを岩泉が噛み砕く。
男らしいなあとは眺めつつ、自分はかじ、かじとアイスを味わった。
『……ごめん』
自分でもそう思う。
が少しずつ食べ進めたアイスの先から見える棒は、すでにハズレと決まっていた。残念。
しょげたに、比べれば及川の方が面倒だから安心しろと岩泉は声をかけた。
どう安心したらよいのかはわからなかった。
こんなに暑いのにガチャガチャをやりに来た小学生が、店の向こうで騒いでいた。
早めに食べておこうとはかじりついたけど、一気に食べてキーンとなった。
『試合、今度『いいよ』
岩泉がまた一般の人が体育館に入ってもいい日を教えてくれるのがわかって、は断った。
『100円玉にしてください!』
が小さな子から500円玉を受け取ったりしている内に、岩泉もいつものように帰っていった。
しばらく来られないそうだ。
練習も合宿もあると聞いていた。勉強だってある。高校2年生だから。
あーあっ。
この夏、ちょっとでも変わりたかったのに、できそうもない。
はまた人気のなくなった店内で、こっそりとレジに突っ伏した。
及川くんは最近ずっと姿を見せない。
next.