ラムネ色した 憐憫 8
及川くんがとなりにいる。
その事実に、の時間は止まった気がした。
実際はまだこうしてゴンドラの向こうの景色が移り変わっていく。
の目に映らないだけだ。
夜景より気になるのは、及川くんのこと。
今日この日を迎えるまでずっと、一緒に過ごしているあいだじゅうずっと、ずっとそうだった。
『はさ、俺が怖い?』
及川の問いかけにすぐ答えられない。
観覧車のゴンドラは、間もなくてっぺんに登り切る。
反射するガラス、きらめく夜景、うっすらと映っている彼のすがた。
ガラス越しに目が合った。
は冷たいガラスから指先を外し、膝の上に置いて、改めてとなりにいる及川と向き合った。
自分の想像よりずっと、及川くんが近い。
相手もこっちを見ていた。
真っ直ぐに、いつもと同じで余裕そうに。
『……こわくない』
『手、震えてるじゃん』
『!』
及川の指摘を受けて、はぎゅっと両手を握りしめた。
『これはっ、その』
及川の方がずっと落ちつき払っていた。
『たっ高いところにいるからで』
が言い切ると、及川はの真横に手をついて距離を縮めた。
傍からみれば、外の景色をいっしょに眺める彼氏彼女のように見えるだろうが、にはそんな想像をする余裕はない。
及川は、さっきまでより声を明るく弾ませた。
『観覧車なんて久しぶり、まーまーの高さだね。
、ほら、あれが勝負したゲームセンターで。
あ! あっちがジェットコースター。
暗くなってから乗ればよかった、ライトついてておもしろそう。
向こうで光ってるのは、なんかのショーかな』
及川くんが言葉を区切って笑いかける。
『、お人形さんにでもなった?』
及川がのほおをふに、と無造作につまむ。
がハッとした様子で瞬きをする。
よかった、目が覚めたと呟くと及川はから離れ、背もたれに身をゆだねた。
『おっ及川くん』
『ん?』
『今日の、デート、……どうだった?』
が真剣な眼差しで及川を見つめた。
及川もしばしその視線を受け入れた。
そののち、ジングルベルを流し始めたゴンドラ内のスピーカーに目を向けた。
『悪くなかったよ』
『そ、……か』
『は?』
わるくなかった。
って返そうと思ったのに、が答えるよりさきに、同じ感想はなし、と及川は付け加え、は唇を結んだ。
『そ、そういうの、ズルい』
『人の感想を真似るのはよくないってだけだし、それが嫌なら先にが感想を言うべきだったね』
口でこの人に勝とうと思うのが間違いだった。
は悟って続けた。
『た、のしかった』
がそっぽを向くと、フッと隣から笑い声が漏れた。
及川の方から視線を感じる。
なんとなくそっちを向くものか、という気分だった。
『俺の目見て言いなよ』
『や、やだ』
『ふぅん、反抗期だ』
そんなんじゃない。
及川くんはぜんっぜんわかってない。
意地でも顔を上げたくない。きっと、目が合えば、ぜんぶ。
『せっかく俺との“デート”なのに』
『デート、だから』
がそう口にした瞬間、観覧車が動きを止めた。
下り始めたゴンドラは残り4分の1程度で地面に到着するはずだった。
『子どもだね』
及川くんが下の方を覗き込んで呟いた。
も視線の先を見つめると、一つのゴンドラの前で何かやっている。
おそらく観覧車から降りる時に、小さな子の服が引っかかったんだろう。
係の人が操作を止め、両親たちとおもわれる大人たちが悪戦苦闘しているようだった。
『大丈夫だよ』
ぽん、といつものように及川くんの手のひらがにふれる。
『その内、動く』
不安を明確に感じていたわけじゃないけれど、の中でほっと緊張の糸がほぐれる感覚がした。
この、“いつも”の感じがたまらなくなった。
自分の知らない、及川徹。
お店でメニューを悩んでいる指先。
足を止めるショーウィンドウ。
アーケードゲームで輝く瞳。
笑顔になるアトラクション、盛り上がった時の声。
今日1日で、たくさん見つけた。
でも、やっぱり、この人は、いつも、あの場所に来てくれる及川くんだった。
『あ、あのさ』
『ん? このままずっと乗ってたくなった?』
茶化すような及川くんの物言い。
勇気をもって、こくりと一つ、頷いてみる。
及川くんの様子を伺う。
じっと、観察するように、見逃さないように。
自分自身も、逃げないつもりで。
及川くんが動きを止める。
そういうことは、
目を見て、
言うべきだって……
及川くんが教えてくれた。
『私ね、このまま、ふた、
り』
ガタン、前触れなく観覧車が動き出した。
座ったままだったせいか、ダイレクトに振動が伝わってくる。
思わず及川くんのコートを掴んでいた。すぐ、その手は外した。
つい、癖だ。安心を求めてしまった。
てっぺんにいる時はゴンドラの動きはゆっくりだと思っていたのに、地面が近づいてみれば、案外そうでもない。
観覧車の扉を係の人が開けるころには、そこそこ急いで降りる必要があった。
『』
呼びかけられ、顔を上げると、及川くんが片手を差し伸べていた。
『降りるよ』
『う、うん』
は自分の手を重ねながら、笑顔も愛想もない及川くんも“らしいな”と感じた。
係の人の誘導に合わせ、お帰りはこちらと描かれた出口を目指す。
もう一度乗りたいなら、列に並ばなければならない。
たちが乗り込んだ時よりも順番待ちの人が増えていた。
くっつきあう男女、騒いでいるグループ。
自分たちのような二人組もいた。手は繋いで、視線はそれぞれ違う方を向いて。
観覧車が遠ざかっていく。
自分たちが乗ったゴンドラはどれだろう。
クリスマスシーズンだけの光り煌めくものではないのだけはわかる。
が眺めていると、ゴンドラは一斉にピンク色へと切り替わり、中央付近にハートが繰り返し描かれた。
『ねえ! きれいだよ、すごく』
が声をかけても及川は足を動かし続けた。
『もう一回、乗っても』
いいんじゃない?
軽い気持ちでは声をかけたのに、及川くんは、手をぎゅっと握ったまま歩き続けた。
及川くんの手は自分のよりずっと大きくて、冷たかった。
どんどん光りから遠ざかり、二人はまた雰囲気のある道のりに消えていく。
『な、なんで、これなの』
おばけ屋敷のアトラクション前。
夏でもないのに、怪奇迷宮とおどろおどろしく看板が怪しく照らされている。
観覧車の次はどれに乗ろうと声をかけられた時のワクワク感を返してほしい。
は決して手を離そうとしない及川を恨めしくにらんだ。
『なに?』
しれっと及川が答える。
は機嫌を直さないまま続けた。
『今日、お詫びのデートなのに』
『お詫びだよ、だから追加チケットは俺が出したんだし』
『他のがいい』
『さっきはが選んだんだから、次は俺、こーいうのは順番。ほら、前進んだ』
駄々をこねてもよかったが、後ろには他の人たちも並んでいる。
仕方なくは列の進みに合わせた。
世間はクリスマス一色でも、学生グループや大人でも、こうやってスリルを求める人たちはいるらしい。
ああ、また建物の方から悲鳴が聞こえてきた。
がうなだれていると、予想通り、及川がの髪を軽くつまんで引っ張っていた。
『なにするの』
『そんな怖がんなくても平気へーき、あの映画、大したことなかったし』
及川くんが入り口横のポスターを指差す。
CMで見かけたホラー映画だ。
このおばけ屋敷とタイアップしているそうだ。
『観たんだ、その映画』
言ってからは後悔した。
『こないだね、CGはすごかったかな』
『……そっか』
“徹”って呼んでいた去年の女の子が浮かんだ。
映画を観たってことはきっと誰かと行ったということで、今しがた出口から出てきた男女の二人に、及川くんとその子を重ねてしまった。
冷静に考えれば、映画は一人だって行く。
二人以上でも、友達と観ることだってあり得る。
は自分の視野が狭くなっていたことに気づけなかった。
夜も更けて寒くなっていたし、今日が“デート”だと肩に力が入っていたせいもある。
『、そんな怖い? だれもを取って食ったりしないよ。
俺もいるしね』
“俺”がいるから、こんな気持ちになってるのに。
は黙って及川の進むちょっと後ろに続いた。
アトラクションのなかは、外よりずっとあたたかく、赤いランプと非常口の明かりがみえた。
next.